書き留めておきたい事が幾つもあるのに、ここに書かずに日が経ってしまった。


注文を受けて羊毛で作ったマスクを納品した。
注文を下さった方御自身が物作りをされる方で、
始めてお会いする方だったけれど、その方にお任せして値段を決めて頂いた。
不思議と何の不安も感じなかった。
その方の作る物をある程度見て来て、丁寧な物作りの姿勢や、
制作する行為を決して軽んじる事のない方に思えたので。
お会いしてみると矢張り思った通りの方で嬉しくなる。


本当はもっとお支払いしたいのだけれど、今はまだ無理なので、
不足な分は自分に出来る事で何かお役に立てれば…
と言って下さった。その言葉だけでも嬉しい。


簡単にちょちょいと出来るのだろう、と思われがちで、
特に近しい人からそうした扱いを受ける機会が多く、その度に溜息が漏れる。
勿論傍で作業を見た事のある人はそうでない事を知っているが、
出来上がった物から作業を想像するのは困難なので無理からぬ事なのだろう。
値踏みされたり驚かれたりするのにうんざりする。
大抵そうするのは興味も持たぬ者だからだ。


次の注文が入った。
最初に値段を確かめることもなく、これこれこういう物を依頼したい、と言う。
迷わず受ける事にする。
それなりの対価を払ってでも欲しい、と思ってくれた人に持っていてもらいたいし、
その為になら寝ずに作業するのでも少しも苦にならない。




 


友人と古着屋の中で上着を物色している。
突然何かを喚き散らしながら店に飛び込んで来た女が、こちらへ向かって来る。
何を言っているのかさっぱり判らなかったが、
摑み掛かって来るので、仕方なく店の外へ押し出す。
女は捨て台詞を吐き捨てて去ったが、その言葉がどうも人の話す言葉ではなかった。
金切り声が途中から獣の叫ぶような声になり、口をぱくぱくさせて泡を吹き、
目はぐりぐりと回って、しまいには白くなった。
どうもこのままでは済むまい、という気がする。


友人を店内に残し、店の外に出されているワゴンの中からシャンブレーのシャツを手に取って品定めしていると、
先程の女が寄こしたに違いない、これも様子のおかしな大男が、
走っているわけでもないのに異様な速さで、俯いたまま僕のすぐ横を通り過ぎ、
店内に入って行った。
生臭い風が巻き起こってぞっとする。
先程の女といいこの男といい、どうも人とは思われぬ。
友人が人違いで僕の代わりに何かされるのでは、と心配になって、
慌ててシャツを手に持ったまま店内に駆け込んだ。
シャンブレーの生地を染め上げるのにも使われている藍は、
魔除けにもなると何処かで聞いた事がある。
頭からシャツを被せて叩きのめしてしまえばいいと考えて、
闘牛士の様にハンガーに掛かったままのシャツを掲げ、
店の中に躍り込んだら、驚いた顔の友人とぶつかりそうになった。
たった今、これこれこういう風体の男が入って来なかったかと訊ねると、
友人は誰も入って来ていないと言う。
おかしいな、確かに入るのを見たのだけど、と話しながら、
矢張り人ではなかったのだ、と思う。


その後は何事もなかった様に店主と話したり上着を試着したりしていた。
気に入った上着を見付けたが、値段が折り合わなくて買うのを諦めた様に思う。
革ジャンの型紙をアレンジして作られたという厚手の布製ジャンパーだった。
頑丈そうな茶色い生地で、リブの部分だけがアーミーグリーンだった。
元になったジャケットの襟にはボアが使われているが、
布製に置き換えた物は襟なしにアレンジされている、と店主が説明してくれた。





 

子の事でアドバイスが欲しくてした質問に、
予想もしていなかった答えが返って来て一瞬唖然とする。
そんな風に誤解されるというのが残念でならない。
普段からどう思われているかが透ける様で、先々のことが不安になる。
もう頼れないな、と思う。


子が生まれた時にも祝福の言葉ではなく、心配だ、と言われたのだったと思い出す。
勿論安心させられない僕に非があるが、何ともやるせない気持ちになる。


百日が瞬く間に過ぎた。
一生懸命に人の顔を目で追うようになり、
声を上げて笑うようになった。
どんどん人になってゆく。
それが嬉しくもあり、少し惜しいようでもある。
子があらぬ方へ笑いかけたり話し掛けたりしているのを見ていると、
僕がとうに忘れてしまった色々なことを知っているようで、
きっと人の言葉を話すようになれば、
この子もそうしたものとの繋がりが段々に薄くなってゆくのだろうな、
と思うと、勿体ないような、まだもう暫くそのままでいて欲しいような気持ちになる。
くるくるとよく変わる表情や不思議な目の輝きは、猫を想わせる。
チィさんがよく日向ぼっこをした場所で、今は子がすやすやとよく眠る。


早く話してみたい、一緒に色々な場所に出掛けたい、と思い、
すぐにまた、ゆっくりでいいよ、と思う。



 



 


初めての子は予定日よりも遅れることが多いと聞いていた。
前兆も全くなく、もっと歩いたりした方がいいのかも知れないと、
出産予定日だった二日にも散歩に出掛けた。
少し腰が重い気がするというので夕方頃には引き上げて来たのだけれど、
食事の支度をして食べ始めた途端に、お腹が痛いと言い出した。
本陣痛なら食事どころではないだろうからまだ違うよね?
などと話しているうちに痛みの間隔が短くなり、慌ててタクシーを呼び、病院へ向かった。
午前一時前に病院へ着いて、四時前にはもう生まれていたので、
異例のスピード出産だと言われた。
初産で予定日ぴったりに生まれて来るのもとても珍しいことらしい。
前駆陣痛に苦しむこともなく、また悪阻も殆どなかった。
生まれる前から親孝行な子だと思う。


病院へ向かう前に血圧降下剤とベータブロッカーをいつもよりほんの少し多めに飲み、
予め心拍を充分に下げておいた。
今の体調では、そうしなければ冷静に立ち会えないと思った。
僕の指を折らんばかりに強く握り締め、痛みに泣き叫びながら耐え続けるのを、
為す術もなく見下ろしているしかない。
出血量が多く、ショック状態から来る震えなのか、
強い痛みに耐え続けた為の反応なのか、
縫合を受ける間も妻の両脚の震えは治まらず、顔色は紙のように真っ白だった。
真っ白な顔をしたまま、隣りに寝かされた子を穏やかな目で見つめている。
いつか話してやれる機会があれば、この日のことを聞かせてやりたい。
どんな風に生まれて来たか、母親がどんなに強い苦しみに耐えたか、
そしてその痛みをすぐに忘れてしまうくらい、
お前の顔を見られた事がどんなに嬉しかったか。
その一部始終を見て、伝えることが僕の役割なのだ、と
真っ白な顔でこの上なく穏やかな表情をした妻を見て、この時初めて理解した。
その時まで、何も出来もしないのに側に居るのが本当に意味のある事なのかどうか、
役に立たないばかりか邪魔にさえなるのではないか、などと考えていた。


顔を見れば何か浮かんで来るかと思っていたが、やっぱり名前が決められない。
考えていたよりもずっと穏やかな優しい顔立ちで、僕よりも妻の方に似ていると思う。
赤ん坊はもっとくしゃくしゃしたお猿さんみたいな顔で生まれて来るものだと思っていた。
耳の形だけは自分にそっくりなのが嬉しい。
外耳よりも内耳の方が発達して高く、妙な形だけれど。
取り上げられてすぐに目を開け、眩しそうな顔で辺りを見回しているようだった。
新生児には殆ど視力が備わっていないというのが信じられないくらい、
はっきりと何かを見ているように感じた。



何もかもが、考えていたのとまるで違う。
何も理解出来ていなかったし、解っていなかった。
何よりも、自分の気持ちが一変してしまったように感じる。
どんな風に接することが出来るか、どう感じるのか、
来る日も来る日も今まで何度も考えて来たけれど、
腕に抱いた瞬間にその全てが消し飛んでしまった。
言葉にはならないけれど、考えてどうこう出来る範囲を超えている。
「考えるな、感じろ。」という何処かで聞いた台詞が頭を過ぎる。
頭で考えると心配や不安は尽きないけれど、
腕に抱いている間は自分が自分でなくなったようにそうしたものからは遠離って、
もっと別な何かに突き動かされているような不思議な感覚を憶えた。


端的に言えば、可愛い。
物凄く可愛くて愛しい。
ほにゃーと泣いたかと思えば目を開けて思慮深げな顔をしてみたり、
天使の微笑と言われる新生児特有の笑顔を見せたり、
何をしていても一挙手一投足全てが面白くて、目が離せない。
新生児は何だか猫に似ている。
この上なく自由で屈託なく、そしてミステリアスだ。
謎の生き物だと思う。


新生児と猫が寄り添っている写真など目にすると、
今もチィさんが元気だったらなあと思う。
添い寝してくれたろうか、尻尾であやしてもくれたろうか。
それとも子を枕にして日向ぼっこでもしたろうか。
歳を経てからのチィさんは、何でも受け入れて許してくれる懐の深さが備わっていた。
きっと側に寄り添うようにして見守ってくれただろう。
もしも何処かに天国だとか言われるような、そんな場所があるのなら、
あの子を見守っていて欲しい。
この先もずっとずっと。




君に会えて嬉しい。
いつか僕が居なくなっても、その事を君が忘れませんように。
父と母になりました。







 


旅先の宿らしき部屋。
妻と、友人らしき人たちと四人で居る。
妻はまだ眠いのか、それとも転た寝をしているのか、一言も話さない。
友人たちのベッドの上を、チィさんが我が物顔でのしのしと歩いて来る。
さっとつかまえて抱きかかえ、よくそうしたように
ひっくり返してお腹を撫で回してやろうとしたら、
抱いた途端に耳許で「ヘックシ!」と、高い声で人間みたいな嚔をした。
驚いて顔を覗き込んだら、チィさんもちょっと吃驚したような顔をしていて、
それがどうにも可笑しくて笑い出した。


抱きかかえた時に(やめろよー)と少し身をよじる様子や、
あたたかくてやわらかな感触が懐かしくて、嬉しくなった。


一緒に部屋に居た見知らぬ友人たちは、
一人はチィさんが歩いていたベッドに横たわった女性で、
もう一人はその脇にあるソファーにゆったりと身を沈めて、
何か散財のプランを持ち掛け、すぐにベッドの女性に窘められて、
もじもじとばつが悪そうに剥がれかけた爪のマニキュアを擦っていた。
彼はよく日焼けをした金髪碧眼の異国の人らしき風貌で、
洗いざらしの白いシャツに色落ちしたデニムを穿いている。
そして爪には白いマニキュアを施していた。
女性の方は、ソバージュの柔らかそうな長い髪が動く度にふわふわと揺れる。
柔らかな物言いだけれど、連れの男性の浪費癖を窘めるやり方が巧くて、舌を巻いた。


ベッドの横には大きな硝子窓があり、高い山々を見下ろす美しい景色が拡がっており、
朝靄の中を雲がとても早いスピードでどんどん流れていって、
チィさんを抱いたまま、暫くその景色に目を奪われていた。




二年近く経って、漸くチィさんが(普通に)夢に現れるようになった気がする。
これまでは夢に現れても別れを想わせるような展開の寂しい夢が多くて、
穏やかな気持ちで目覚めることは少なかったけれど、
今朝は目が覚める前から嬉しくて、久し振りに夢の中の細かなことがはっきりと思い出せた。



 


足首から先が猫足になっている夢を見た。
太短い薄茶の虎柄で、かなり高いところから跳び降りても巧く着地することが出来る。
高いところに上がるのは少し大変そうだったけれど、
普通なら梯子を使って登るところを、ジャンプだけで何とか跳び付くことが出来た。
5、6メーターはありそうな場所から、思い切り助走を付けて遠くに跳ぶ。
跳んだ瞬間に視界がスローモーションに切り替わる。
昨日買ったばかりの靴が、自分の足に猫の肉球が付いてたらこんな風かしら、
と思うような履き心地で、その所為でこんな夢を見たのかも知れない。
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暗い体育館のような場所で、ロフトから飛び降り、向かいのロフトに飛び上がる。
ロフトには何人かの知人が居て、それぞれに何か作業をしているようだった。
明日閉会してしまう展示のチケットを一枚、ノルマだと言って売りつけられてしまった。
面白くないと思ったが無碍に断るのも不人情であるし、
それくらいの義理はあるようにも思う。
薄暗いこんな場所で皆何をしているのだろうと思ったけど、
それを気軽に訊ねられるという雰囲気でもなかった。
皆が息を潜めるようにして小声で話す。


僕はまたそこから跳び降りて暗い路地裏へ向かう。
いくつもの塀を乗り越えてそこからどんどん遠離る。




目が覚めてから、夢の中で出会ったのが、もう鬼籍に入った人達ばかりだったことに気付いた。