きょうはいい日

パニックになってはいけないけれど、冷静な危機感は持ち続けなくては、と思いつつ、何だか夢の中にいるような、熱に浮かされたような、薄ぼんやりとした不安感に包まれたまま、ニュースを見て溜息をつく。

武漢、イタリアやパリの惨状を聞いて、余所事のようには思っていないつもりだけれど、自分の国だけは大丈夫だとか、自分の家族だけは特別だとかは微塵も思わないけれど、具体的に何か行動しているかというと、子供達を出来る限り家の中に居させるという事くらいで、他にどうすればよいのか見当もつかない。

このまま新学期が始まったら、不安な気持ちに蓋をして、また子供に重いランドセルを背負わせ、毎朝見送るのだろうか。

本当にそれで後悔しないで済むか、自信が持てない。

 

ふと、母が存命ならこんな時何と言ったろう、父ならどうだろう、と考える。

戦争を経験した世代だからなのか、何か通常と違う事が起きそうな時、父も母も、独特の嗅覚の様なものが働くようだった。

特に母は、唐突に脈絡もなく、まだ見慣れない顔の政治家をひと目見て、「この人は駄目だ、危ない。」などと言い出す。

政策がどうだとか、具体的にここが駄目、というのではなく、「兎に角嫌だ、大嫌い。」という様な言い方なので、政治に疎い僕は、まだ曖昧な印象しか持てないその政治家の顔を眺めながら、(ふうん?)と半信半疑に聞き流してしまう。

その人が瞬く間に国の重要なポストに納まって、毎日の様にニュースで報道されるようになる頃になって、漸く僕も、(この人は嫌だ、危ない)というのを理解する。

物がなくなるのは一瞬だよ、ぎりぎりになってから慌てても遅いんだよ、というのもよく言われた。

これも本当に物のない厳しい時代が身に沁みていたからなのだろう。

 

子供達は七歳と五歳になったばかり。

休校中も家の中で新しい遊びを発見しては無邪気に歓声を挙げている。

下の子はよく、「きょうはいいひだねえ。お菓子をいっぱい食べて、おもちゃでいっぱいあそんだから!」などと言う。

その言い方が、あんまりしみじみと実感がこもっているので、こちらも思わず笑ってしまう。

そうだね、ラムネを食べて、「くちのなかでしゅわしゅわしてなくなった!」とはしゃいで、ブロックで遊んで、絵本を読んで、いい日だったね。

「明日も明後日も、きっとずーっといい日だよ。」と口に出して、ふいに子供の顔を真っ直ぐ見ていられなくなった。

本当にそうだろうか。

明日はきっと今日よりいい日が来る、と本当に言ってやれるのだろうか。

 

背中を叩いて活を入れてくれる分厚い手と、理屈抜きに不安を吹き飛ばしてしまう様な、朗らかな声を懐かしく思う。

親になった身で、未だに子の身の振り方一つも決められないで情けないけれど、こんな時は「寄る辺なき身の寂しさよ」と思わずにはいられない。