今日で一歳になった。
あっという間だったような気もするし、そうでもなかったような気もする。
機嫌が良いと、にこにこしながら仁王立ちしている様子が度々見られるようになった。
伝い歩きをするようになり、ちょっと目を離すとソファーによじ登って
お向かいのビルを睥睨して得意げに立っている。
僕に似たのかあまり気は長くないようで、
時々癇癪を起こしてはおもちゃを投げ散らかし、
雄叫びを上げながら物凄いスピードで家中を這い回る。
何か制止しなければならないような場面でも、
一生懸命人の言葉で説明なり説得なりしてみたところで、まだ一向に通じない。
試しに母猫が仔猫を叱る時にするように「シャーッ」とやってみたら、
少し驚いた顔をして熱いものに伸ばした手を引っ込めた。
まだ人より猫に近いような気もする。
チィさんが好きだった窓辺がお気に入りのようで、
飽きずに窓の外を眺めている。



四月からは保育園にやることが決まった。
母親が少し背中を見せただけで泣き喚くような有様なので、
預けるのは甚だ不安である。
きっと何とかなるのだろうけれど。





 


子を風呂に入れて、結局いつも水浸しになるから
自分も手早くシャワーを浴びて、というのが日課になった。


目を閉じて頭の天辺から熱い湯を浴びる。
先程迄の喧噪が消えて水音だけになった瞬間、ふと、
結婚し子が出来て家族を持ったというのは全て夢で、
浴室から出るとそこには誰も居ず、家の中は静まりかえっているのではないか、
と思う事がある。
ああ、なんだ やっぱり気の迷いだったのか、そう思ってテーブルにつく。
一人で食事を始めるが、口にしているのが肉なのか野菜なのか、
甘いのかしょっぱいのか、さっぱり解らない。
ぱさぱさと乾いたものを黙々と食んで呑み下し、
薄暗いキッチンの奥を眺めているうちに、
ぐにゃりと視界が歪んでそこいら中のものが崩れ落ちてくる。


そこまで考えて湯を止め、ゆっくりとバスルームを出る。
家の中は薄暗く、静まりかえっている。
物音をたてないよう、ゆっくりと寝室の扉を開ける。


添い寝されてすぐに寝入った我が子と、
添い寝をしながらいつも一緒に寝てしまう妻が、静かな寝息をたてている。


何処かに、バスルームを出て寝室の扉を開けたら、
やっぱりそこには寝息をたてている息子も妻も居なくて、
真っ暗な洞のようになった部屋の奥を見つめながら
立ち尽くしている僕が居るような気がする。
もしかしたらそちらの世界が現実で、何かの弾みでいつか僕も
そちらの世界に還る時が来るのじゃないか、そんな風に思ってみたりする。
薄暗い部屋で、味のない砂のような食事をして、
それを寂しいとも不満だとも思わない、何かを得る為には何かを捨てなければ、
と訳知り顔を決め込んですました顔でいる。
自分の顔が粘土のように崩れていって、目のあった場所には
暗い二つの穴が洞のようにぽっかりと口を開けて、
今にもそこに飲み込まれそうになる。


子が寝静まると静か過ぎて、起きている時の慌ただしさや賑やかさと比べると
あまりにも別な世界にぽつんと取り残されたようで、感覚の乖離を感じる。
それで時々、そんなことを思うのだろう。


元気で、どんどん大きく、重くなる。
驚くくらいの速さで大きくなり、此方はと言えば、色々なことに追いつけないでいる。
嬉しい悲鳴というやつだから、ちっともかまわないのだけれど。




 


停車したバスの中に立っている。
外は暗く、通りに面した色んなお店の灯りがぼんやりと目に映る。
入り口近くの手摺りに掴まって立っていると、開いたままのドアから妻が乗り込んで来る。
近くのジュエリーショップであなたに良い物を二つ見付けた。
どちらも素敵で選び切れなかったので二つとも買ってしまった、
そう言って小箱を二つ、僕の胸ポケットに入れた。
箱を開けてみると、硝子と銀を巧みに使った指輪と、
もう一つはペンダントヘッドだろうか。
後で明るい場所でゆっくり見よう、そう思ってすぐに箱に戻す。
礼を述べて話をしていると、そのアクセサリーを買った店の主人が妻の後を追って来た。
僕とも旧知の仲であるらしい。
あの店を畳む事になったので、もし良かったら店舗を貸したい、という申し出だった。
ありがたい申し出だが借りるお金がないし…と返事を言い淀んでいると、
暫くは無償でも構わない、空き店舗にせず使ってもらえる方がありがたいのだから、
と言うので、降って湧いた様な話に戸惑いながらも、また礼を述べ、
これからどうしようかとぼんやり考え始める。
外の暗さはどんどん深くなり、バスは一向に動き出す気配がない。


夢は繋がっているようだが、時間帯と場所が変わる。
繋がっている、と感じるのは、バスの停車していた時に見た景色を、違う立ち位置から見たからだ。
薄暗くなり始めていたから、夕暮れ時だったように思う。


先程のバス停から少し離れた場所にある店の前を通り過ぎ、
どんどんと裏通りへ向かって歩いて行く。
何処とも言い難い雰囲気だった。
ニューヨークのチャイナタウンとか、異国の中にある小さな異国、とでも言うのか、
チベット風の小さな中庭のような処に辿り着く。
今は海外で暮らしている友人が、ベンチに腰掛けて煙草を燻らせている。
近くへ行くと友人がとても驚いた顔をしたので愉快になって、
煙草を一本吸ったら帰るから、僕にも煙草をくれないか、と言った。
僕も自分の煙草を持っていたが、友人と出会う前に人にあげてしまい、もう残っていなかった。
幾人かのチベットの坊さんだか乞食だかよく判らない風体の人と地面にしゃがみ込んで、
ねだられるままに煙草を分け与えて一緒に吸った。
驚くほど博識かつ聡明で、貧しい暮らしはとても相応しいものと思えないのに、
皆それが天命であるかの様に堂々とし、何の不足も疑問も抱いていない。
暖かそうではあるが襤褸布の様になった薄汚いコートと耳当て付きの帽子を身に纏い、
兎の毛の付いた柔らかそうなブーツを穿いて、地面に座り込んで
「煙草をおくれ。吸う間傍に座って話をしよう」僕にそう言った。
一本吸い終わると彼等の話がもっと聴きたくなって、どんどんと煙草を渡した。
旨そうに煙を吐き出しながら、彼等の口からはこれまで誰からも聴いた事のない様な眩しい言葉が溢れ落ちる。
平伏したい様な気持ちになったが、努めて親しく、対等に振る舞った。
彼等がそう望んでいると感じたので。




起きてすぐ居間に行き、妻に夢の話をした。
それから友人にメールの返信をした。(先程の夢に現れた友人とは別な友人)
この日の朝、その友人の夢を見、夜になってその友人からメールを貰ったのだった。
友人は今は病院で療養中で、その事を気に掛けていたから夢に見たのかも知れないけれど、時々こんな事がある。






 

書き留めておきたい事が幾つもあるのに、ここに書かずに日が経ってしまった。


注文を受けて羊毛で作ったマスクを納品した。
注文を下さった方御自身が物作りをされる方で、
始めてお会いする方だったけれど、その方にお任せして値段を決めて頂いた。
不思議と何の不安も感じなかった。
その方の作る物をある程度見て来て、丁寧な物作りの姿勢や、
制作する行為を決して軽んじる事のない方に思えたので。
お会いしてみると矢張り思った通りの方で嬉しくなる。


本当はもっとお支払いしたいのだけれど、今はまだ無理なので、
不足な分は自分に出来る事で何かお役に立てれば…
と言って下さった。その言葉だけでも嬉しい。


簡単にちょちょいと出来るのだろう、と思われがちで、
特に近しい人からそうした扱いを受ける機会が多く、その度に溜息が漏れる。
勿論傍で作業を見た事のある人はそうでない事を知っているが、
出来上がった物から作業を想像するのは困難なので無理からぬ事なのだろう。
値踏みされたり驚かれたりするのにうんざりする。
大抵そうするのは興味も持たぬ者だからだ。


次の注文が入った。
最初に値段を確かめることもなく、これこれこういう物を依頼したい、と言う。
迷わず受ける事にする。
それなりの対価を払ってでも欲しい、と思ってくれた人に持っていてもらいたいし、
その為になら寝ずに作業するのでも少しも苦にならない。




 


友人と古着屋の中で上着を物色している。
突然何かを喚き散らしながら店に飛び込んで来た女が、こちらへ向かって来る。
何を言っているのかさっぱり判らなかったが、
摑み掛かって来るので、仕方なく店の外へ押し出す。
女は捨て台詞を吐き捨てて去ったが、その言葉がどうも人の話す言葉ではなかった。
金切り声が途中から獣の叫ぶような声になり、口をぱくぱくさせて泡を吹き、
目はぐりぐりと回って、しまいには白くなった。
どうもこのままでは済むまい、という気がする。


友人を店内に残し、店の外に出されているワゴンの中からシャンブレーのシャツを手に取って品定めしていると、
先程の女が寄こしたに違いない、これも様子のおかしな大男が、
走っているわけでもないのに異様な速さで、俯いたまま僕のすぐ横を通り過ぎ、
店内に入って行った。
生臭い風が巻き起こってぞっとする。
先程の女といいこの男といい、どうも人とは思われぬ。
友人が人違いで僕の代わりに何かされるのでは、と心配になって、
慌ててシャツを手に持ったまま店内に駆け込んだ。
シャンブレーの生地を染め上げるのにも使われている藍は、
魔除けにもなると何処かで聞いた事がある。
頭からシャツを被せて叩きのめしてしまえばいいと考えて、
闘牛士の様にハンガーに掛かったままのシャツを掲げ、
店の中に躍り込んだら、驚いた顔の友人とぶつかりそうになった。
たった今、これこれこういう風体の男が入って来なかったかと訊ねると、
友人は誰も入って来ていないと言う。
おかしいな、確かに入るのを見たのだけど、と話しながら、
矢張り人ではなかったのだ、と思う。


その後は何事もなかった様に店主と話したり上着を試着したりしていた。
気に入った上着を見付けたが、値段が折り合わなくて買うのを諦めた様に思う。
革ジャンの型紙をアレンジして作られたという厚手の布製ジャンパーだった。
頑丈そうな茶色い生地で、リブの部分だけがアーミーグリーンだった。
元になったジャケットの襟にはボアが使われているが、
布製に置き換えた物は襟なしにアレンジされている、と店主が説明してくれた。





 

子の事でアドバイスが欲しくてした質問に、
予想もしていなかった答えが返って来て一瞬唖然とする。
そんな風に誤解されるというのが残念でならない。
普段からどう思われているかが透ける様で、先々のことが不安になる。
もう頼れないな、と思う。


子が生まれた時にも祝福の言葉ではなく、心配だ、と言われたのだったと思い出す。
勿論安心させられない僕に非があるが、何ともやるせない気持ちになる。


百日が瞬く間に過ぎた。
一生懸命に人の顔を目で追うようになり、
声を上げて笑うようになった。
どんどん人になってゆく。
それが嬉しくもあり、少し惜しいようでもある。
子があらぬ方へ笑いかけたり話し掛けたりしているのを見ていると、
僕がとうに忘れてしまった色々なことを知っているようで、
きっと人の言葉を話すようになれば、
この子もそうしたものとの繋がりが段々に薄くなってゆくのだろうな、
と思うと、勿体ないような、まだもう暫くそのままでいて欲しいような気持ちになる。
くるくるとよく変わる表情や不思議な目の輝きは、猫を想わせる。
チィさんがよく日向ぼっこをした場所で、今は子がすやすやとよく眠る。


早く話してみたい、一緒に色々な場所に出掛けたい、と思い、
すぐにまた、ゆっくりでいいよ、と思う。