読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

 敬老の日、母が旅立った。

日々

白血病が再発し、再入院してから四日目のことだった。
何でも我慢してしまう癖の人だったから、
医師が「全身の骨が軋むような激しい痛み」と表現した痛みでさえ、
ぎりぎりまで自宅で我慢してしまったようだ。
モルヒネの投与が遅れた為にすぐには充分な鎮痛効果を得られず、酷く苦しんだ。
医師の話を聞くと、あと数日早く来院していたら、
もしかしたら最期の苦痛をほんの僅かにでも和らげられたかも知れなかった。
どんなに病院へ戻るのを嫌がっても、煩がられても、もう少し早く、
無理にでも病院へ連れて行くべきだったかも知れない。
それが一つ目に悔やまれる事。


亡くなる前の日の明方、携帯が鳴った。
苦しそうな息遣いの合間から「すぐ来て欲しい」という言葉だけを何とか聴き取り、病院へ急いだ。
病室に入ると、母は息も絶え絶えに、それでも僕を見ていくらかは安心したような顔をして、
鎮痛剤が少しも効かない事を訴えた。
医師を探して、何か他に痛みを和らげる方法がないかと訊ねると、
現在の病状がどれほど深刻な段階に来ているか、全て包み隠さず事細かに説明してくれた。
もうモルヒネも充分な効果を発揮せず、出来得る限りの処置を施している事を知って呆然とする。
事実を話して希望を奪う事は良い影響を与えない、というアドバイスを受け、
また自分でも強くそう感じたので、医師と口裏を合わせ、一世一代の嘘をつく事にした。
僕は医師よりも一足早く病室へ戻り、「拒否反応を防ぐ為に徐々に投与量を増やしているそうだから、
もう少しの辛抱だよ。絶対に効いてくるから大丈夫。少し時間は掛かるみたいだけど。」
そう言う事にした。
医師が後から来て、その後押しをしてくれる。
そう取り決めて病室へ向かう間、廊下が揺らめいて脚が萎えるような不安な気持ちになった。
母に上手く嘘がつけるだろうか。いつも僕の顔色を見ただけで何でも言い当ててしまったあの母に。


病室に着くと、心から安堵したような半笑いで病室に入り、ベッドの脇に腰掛けて
「わかったわかった、お医者さんが今すごく詳しく説明してくれたよ、後でここ来てもういっぺん話してくれるそうだよ。」
それからさっきの説明をして、大丈夫だからもうちょっと待ってて、と声を掛けた。
母は苦痛に顔を歪めたままだったが、それでも疑うことなく僕の話を信じてくれた。
それはこれまで、僕が一番したくないと思っていた事だった。
大切な人に、おそらくは隠されたくないだろう事実を隠す事。
自分は絶対にそうされたくない、どんな残酷な事でも事実を知っておかねば気が済まない、
自分の最期に関わる事なら尚更そうだ、そう考えてきたのに。
なのに驚くほどすらすらと、笑顔まで作って、自分でも信じ込みそうになるくらい巧く、
母に嘘をついた。
それが二つ目に悔やまれる事。
そうする他になかったし、もしやり直せるとしても何度でもそうするだろうけれど、
葬儀が終わった今もこの事が頭から離れない。


母は結局一日中激しい痛みに苦しみ、僕はそれを為す術もなく見ている事しか出来なかった。
それでも合間合間に色々な話をした。黙っていれば痛みのことばかりに気が行ってしまう。
言葉を絞り出すのは苦しそうだったが、僕は止めなかった。
携帯で撮った孫の動画を見せ、一番最近の写真を見せ、その様子を話し、
ハイハイを始めたばかりの弟と、その弟に跨って頬擦りしている兄の、笑い話のような様子を聞かせた。
そうしている一瞬にだけ、痛みは僅かに遠のいて、母は微かな笑顔を覗かせた。


二人の兄も来て、それぞれに言葉を交わした。
母は結局、本当に最期まで人のことばかり心配していた。
兄に「明日も早くから仕事なんだろう、身体が疲れるから早く帰って」と言い、
僕に「お前はお爺ちゃんに似て気が短いから心配だ、人を許せないと世界がどんどん狭くなるよ」と言い、
その日の晩、脳出血を起こして昼前には逝ってしまった。
出血が起こる直前に意識があったかどうか、誰にも判らない。
別れ際、「電話を鳴らしてくれさえすればすぐにまた来るからね」そう言い置いて帰ったが、
それきり電話は鳴らなかった。
母のことだから、そんな時でさえ「夜中に起こすと可哀想だから」と考えそうに思う。
いつもいつも人の事ばかりで、自分の事は二の次三の次だった。
そうして見返りは一切求めず、自分のした事で誰かが喜べば、それがそのまま自分の幸せだと思っていた。
そんな風だから、好物を訊ねられても困った顔をしている。
父や子供の好きなものが、誰かが喜ぶものが、その時自分の作りたい、食べたいものだったから。
幸せだったろうか、と考え込んでしまう事もある。
だけど今は、幸せな人だったんじゃないか、と思う。
人が笑ってるのを見ているのが本当に好きな人だった。
お前は下らない遠慮ばかりして気を回し過ぎる、良くない癖だといつも叱られたが、
気を回し過ぎるのはきっとあなたに似たのだ。
母は気遣いを悟られないように気を遣うのが、とても巧かった。


母のしてくれた事の中でも一番感謝しているのは、僕の妻を本当に可愛がってくれた事だ。
親元を離れて遠くに来て不安に違いないから、どんな事でもしてやりたいのだと言って、
あれこれ贈り物を探してきては、それを素直に喜んで受け取る妻を、可愛い可愛いと言って自分も喜んだ。
妻に「あんた本当に美味しそうに食べるねえ、こっちまで嬉しくなるよ」と言って、よく食事に誘ってくれた。
そんな時も、「御馳走してくれるのは大いにありがたいが今日は妻は留守だ」と答えると、
「なんだそうなの?じゃあまたにするわ、あんただけじゃつまらないから」と電話を切ってしまうのが常だった。
寂しい気持ちにならないように、不安にならないように、
一緒にいる時はいつも妻を中心において笑い掛け、僕を隅に置いた。
そういう気遣いが僕達を支えてくれた。
両手に一杯野菜を抱え、「買い物の帰りだから寄らないよ、忙しいんだから」と言って、
タクシーの窓から包みを渡し、車も降りずに慌ただしく走り去る。
そんな事がよくあった。
昔から重い荷物が苦手だったのに、うちに来る時はいつも吃驚するくらいの大荷物だった。
本当は用事があって出掛けたのじゃない、時々は贅沢なものを振る舞いたくて、
わざわざ買いに出掛けていたのを知っている。
何かあると、「嫌な事や悲しい事があった時は出来るだけ美味しいものを食べなさい」と言って、
果物やチョコを贈ってくれた。


下らない遠慮や意地で、そうした好意を固辞してしまう事もあったが、
今になってもっと素直に甘えておけば良かったと思う。
歳を取ると、人に甘えるのがどんどん下手になる。
人の好意を素直に受け取って喜べる妻と、それを心から喜べる母は何処か似通っていて、
ふとした瞬間には嫁と姑ではなく、歳の離れた友人同士のように見えた。
母がいなくなった今、僕よりも心細い気持ちになっているのは、もしかしたら妻の方かも知れない。


母が溜息をつくようにして最期の息を吐く時、義姉が我慢し切れなくなったように
「ねえ何か言ってあげて、もっと傍に行ってあげて」と言ってくれたが、
兄は「うん」と小さく返事をしたまま身動ぎせず、けしてベッドの傍には行かなかった。
僕は手を握ったまま、一言も声を出す事が出来なかった。
名を呼べば、苦しみを長引かせるように思えて恐ろしかった。


母の言い置きで、極力誰にも知らせず、母の姉妹と自分たちだけでひっそりと見送った。
母は出来るだけ誰も煩わせず逝く準備を整えていた。


葬儀も済んで、不義理になってしまうからいくつか連絡をせねばならないのは承知しているけれど、
あの病室での時と同じように、竦んでしまって話せない。
こうして文字には出来るのに、まだ自分の言葉に出して誰かに話せる気がしない。
悲しいのに、一度も涙は流れなかった。
今は気持ちの中に自分でもよく解らない事が沢山起きていて、
急いで答えを探せば判断を誤るように思えて、時々考えるのをやめる。
そうしながらいつも通り食事を摂ったり、買い物に出たり、子の世話をする。
いつかこの子たちに話してやりたい事が沢山ある。
知っておいて欲しい物語が沢山ある。
僕や妻のほかにも、君たちのことを本当に大切に考えていてくれた人がいること。
その人が君たちにしてくれたこと。それから君たちがその人にしてあげられたこと。
僕は本当に沢山のことをして貰ったのに、殆ど何一つお返しする事が出来なかった。
僕のした事といったら、よろよろと危うげに何とか踏み留まって、先を越さずに順番だけは守った事と、
それから子供たちと会わせられた事くらい。
それでも母は、「それだけで充分、お釣りがくるよ」と笑いそうな人だった。


最期の時をこの目に焼き付け、骨になるのも見たというのに、
まだいつものように電話が鳴るような気がしてならない。


「何か美味しいものでも食べに行かない?みんな何がいい?」