小さな頃、父の洋酒棚から果実酒を盗み飲みするのが好きだった。
台所の洋酒棚に並んだ、背の高いのや、丸いの四角いの、
様々なボトルに入った琥珀色の液体はどれも、その頃の僕にとっては
おかしな匂いのする只の不味い飲み物でしかなかったが、
その棚の一番下にあった、幼かった僕の力では
持ち上げるのもやっとな大きなボトルに入った果実酒だけは、
世の中にこんなに甘くて美味しい飲み物があったのかと思うほど
得も言われぬ味がするのを知っていた。


家族が寝静まるのを待ってそっと部屋を抜け出すと
真っ暗なキッチンへ行き、椅子の上に登って重い瓶を床に下ろし、
普段は使う事を許されていない切子硝子のグラスを棚から取り出す。
目の覚める様な青い切子に、血の様に真っ赤な果実酒を慎重に注いで行くのは、
まるで魔法の儀式の様に思えていつも胸が高鳴った。
グラスに注ぎ終わると零さない様にして大急ぎで部屋に戻り、
何度も月の光に翳しては一口だけ飲み、
小さな手に包み込んだ切子の青を眺めて溜息を洩らし、
口の中に広がる甘さに目を閉じてまた溜息をつく。
巨大なボトルに入った果実酒は、
いつまでも無くならない魔法の飲み物に思えた。


しかしそんな密かな楽しみも、ある日突然の終焉を迎える。


いつもと同じ様に部屋を抜け出し、棚からボトルを取り出すと
何故だか昨日よりも少し重くなっている気がする。
いくら魔法の飲み物だって、まさか本当に勝手に量が増えたりはしないだろう。
きっと気の所為だ。そう思って気にも留めず、部屋に戻って月に翳す。
・・・・昨日までこんな色をしていただろうか。
もっと深く、それでいて澄んだ赤ではなかったか。
嗅いでみても、あのふんわりとした甘い香りは感じられない。
口に含む。
少しも甘くない。
あの得も言われぬ様な芳醇な甘さは何処にもない。


突然、魔法が消えてしまったかの様だった。
鼻も口も馬鹿になってしまって、もう何も感じないのだろうか。
今日は切子の青さえくすんで見える。
悲しくなったが、いつもの様に抜かり無く証拠隠滅を図らねばならない。
グラスは洗って元の棚に戻し、何食わぬ顔で朝を迎えなければならない。


それからもう一度だけ果実酒を盗み飲みしたが、
やっぱりあの魔法の味は二度と戻る事はなかった。




随分と時が過ぎ、あの日突然魔法が消えた訳を知った。
辛口の酒を好んだ父は、あの果実酒を滅多に口にしなかった。
なのにボトルの中の果実酒は少しづつ減って行く。
不審に思った母は、家族の中の誰かが
毎日少しづつ盗み飲みしている事に気付いたのだ。
そこで策を講じた。
ボトルの中身をデキャンタに移し別な棚に隠すと、
空になったボトルに赤い絵の具を薄めて果実酒に色を似せたものを入れ、
元の棚に戻したのだ。


この時ばかりはしてやられた。
母との静かな攻防は、その後果てる事なく何度も繰り返されたのだが、
この時ほど見事に大敗を喫した苦い思い出は
後にも先にも思い起こす事が出来ない。