奧さんが少し鼻をぐすぐすさせているな、と思ったら軽い風邪で、
彼女は元来丈夫な質なので、どうということもなく熱も出さずに済んだのだけど、
今度は子が少し鼻を垂らすようになって、それも熱が出たりせずにすぐに良くなって、
僕はというとすぐに人の風邪を貰い受けては酷く拗らせ
なかなかに手放さない質なものだから、普段から気をつけてはいるのだけど、
今度もやっぱりしっかりと貰い受けて阿保みたいに拗らせている。
元の二人がどうということもなく受け流した物が、
どうすればここまで拗れるのか、我ながら呆れてしまう。


そんなこんなでここ数日臥せっているのだけど、今日、ちょっとした騒動があった。
朝から血圧が妙に高くて頭がぼうっとしている。
喉痛、頭痛、腹痛、発熱と出て来る症状をその都度色々な薬で紛らわせ何とか凌いでいるので、
身体の方でもあれこれ対応に追われて混乱するのか、矢張りいつもとは少し様子が違っている。
降圧剤と脈拍を調整する薬を飲んで幾分落ち着いたが、
仮眠から目覚めてもまだ半ば夢の中に身を半分忘れて来たような具合がする。
妻が用事で出掛けたので、もそもそと起き出して子に芋など食べさせて朦朧と留守番をしていると、
玄関の方でガチャガチャと物音がする。
子を抱いて見に行ってみると、ドアポストから乾涸らびたような白い指が伸びて来て、
ドアの内側を必死に引っ掻いている。
まだ夢を見ているのかと思ったけれど、指はいつまでも引っ込まない。
呆然と暫く眺めていたが、あんまりしつこいのでドアを開けて何をしているのか訊ねてみた。
一階のロビーで何度か見掛けたことのあるおばあさんが驚いた顔で立っている。
「何をしているのですか」との問いに「あなたこそここで何をしているのか」と言う。
「ここは私の家です」
「いいえ、ここは私の家です」
「あなたの家は別な階ではありませんか?表札だってあなたの名ではないでしょう」
「あらあら、こんなに物を運び込んで… いつの間に…?」
会話の内容もまるでかみ合わなくて、益々悪い夢を見ているようだ。
表札を見ても、玄関の中を見ても、ここは私の家だと言い張って利かない。
落ち着いて「おばあさんのおうちは何階ですか」と問うと
「そんなことわからないわよ」と得意げな顔で即答される。
抱いた子が重くて段々に腕がだるくなるし、下がりかけた熱がぶり返しそうだ。
子が退屈して今にも暴れ出しそうだし、
おばあさんはずんずん家の中に入って来ようとするしですっかり困り果てていると、
「寒空の下、子が気の毒だから」と、一時的にここに居てもよい、と許可をして
「私が誰それに事情を訊いてきてあげる」と悠然と去って行った。
気になって、急いで部屋着から着替え、子を抱き直し後を追ったが、
多分別な階で同じことを繰り返しているのだろう。
もしかしたら出掛ける度に家を忘れて、
各階総当たりして何とか自分の家に辿り着いているのかも知れない。
以前も、明け方近くゴミ出しに行った帰りに呼び止められて何か訊ねられた。
身振りで後を付いて来いと言うのでゴミ捨て場まで引き返すと、
何を訊ねたかったのか忘れてしまったようで、独り言のように
「困った困った。これじゃ解らない…」とゴミの山を見て首を振りながら何処かへ行ってしまった。
解らないのはこちらの方で、何だかぽつんと取り残されて妙な気持ちになった。


背筋のシャンとした身なりのよい、品の良さそうな老婦人で、
きっと誰かの大切な母であり、誰かの大切な妻であるのだろう、
またはそうであったのだろう、と思うと、
何となく薄ら寂しいような、切ないような気持ちになる。