チィさんは人間が嫌いだった。


母親に連れられてやっては来るけれど、
「私には触れるな」
というオーラを全身に纏っていた。
僕も無理に触れたりしなかった。
人になど懐かない方が良い。


やがて子離れの季節が来て、
母親が一緒に行動しなくなってからも度々やっては来たが、
一定の距離は保たれていた。


他の兄弟たちはどんどん大きくなって、
それぞれの居場所を見つけた様だったが
チィさんはいつまでたっても痩せっぽちで、小さなままだった。
そして相変わらず「私には触れるな」だった。
それでも家の窓辺へ来て日向ぼっこをし、
外に置いてあった僕の道具箱の中で眠る日もあった。
無事でいる事さえ確認出来ればそれでいい。
互いにそれ以上を望まなかったし、
ずっとそんな風に時が過ぎて行くものと思っていた。


ある日、いつもの細い鳴き声からは想像もつかない、
搾り出す様な長い叫び声を聞いて、驚いて窓の外を見た。
後ろ足を引き摺ったチィさんが、前足だけで這って来る。


窓の下へ来て僕の顔を見て鳴き続けるが、
手を伸ばすと必死で逃げようとする。
隣家の縁の下に入り込もうとするのをやっとのことで捕まえた。
後ろ足はだらんと伸び切ったまま、全く動かせない様だった。
僕もチィさんも泥だらけ、蜘蛛の巣だらけのまま、獣医へ行った。


腰骨に何か強い衝撃を受けて骨が変形している事、
足が動かせる様になるかどうか判らない事、
半身麻痺で排尿困難の症状が出た場合、
治療を続けるのは難しい事が判った。


長い入院生活が始まった。
次の日電話で様子を訪ねると、
医者は「手を酷く噛まれた」と言って笑った。
この医者は信用出来る。そう思った。
噛む元気があるなら、望みはあるかも知れない。
費用が安くは済まない事を告げられたが、そのまま治療をお願いした。
医者は毎日噛まれながら、神経を刺激する注射を打ってくれた。
少しづつ後ろ足が動く様になり、何とかよろよろと立ち上がれるまでに回復した。


病院へ迎えに行った日、最期の最期に
「漸く今朝、撫でさせてくれた」そう言って、医者はまた笑った。
何の設備もないような、普通の民家の一室のような診察室。
お世辞にも近代的とは言い難い獣医だったが、
ここでなければきっとチィさんの命は救われなかった。
心から頭を下げた。


その月の収入は封筒に入ったまま目の前を素通りした。




僕とチィさんは、ぎこちなく、一緒に暮らし始めた。