彫る

ヤモリくん

「俺達が彫った時間を時給に換算したら、
 いったい幾らになると思う?」
兄弟子の うんざりした様な、悲痛な呟きを思い出す。
きっと何十円にも満たないだろう。
もしも彫り上がったものに時給で値を付けたりしたら、
どう安く見積もっても大変な額になってしまう。


「これで食って行く気なら、もっと手を早くしなきゃ駄目だ」
師の、重く厳しい口調を思い出す。
「丁寧な仕事は大切だが、趣味でやってるんじゃないんだ」
彫り上げるのに時間が掛かり過ぎると、よくそうやって叱られた。


すっと昔、まだ景気の良かった頃、
師の小品が飛ぶ様に売れた時期があった。
漸く彩色が済んだばかりの、顔料もまだ乾き切っていない小品を
隣の部屋で待ちかねていた画商が飛んで来て
すぐに何処かへ持って行ってしまう。
一服しながら仕事の仕上り具合を確認する間もない。
弟子達が任されていたのは、
木取り、星取り、荒彫り、小作り、仕上げ彫り、といった工程の一切で、
最後に師匠が彩色をし、銘を刻む。
だから師匠は弟子達が仕上げ彫りを終えるまで、何もする事がない。
仕上げ彫りが済むのをアトリエの中で師匠がじっと待っているのは、
弟子たちにとって大変なプレッシャーだった。
今思えば、隣の部屋で画商に待たれていた師匠も
やっぱり同じ気持ちだっただろう。


彫ったものをお金に換える。
それだけをして生計を立てて来た人だった。
その厳しさを骨身に沁みて知っていたからこそ、
作業効率や作品に掛ける時間について、
あれほど厳しく言ったのだろう。


「時給にしたら何十円」、と嘆いた兄弟子は、
それでも彫る事を辞めなかった。
仕上げ彫りは、胡座をかいて朝から晩まで
耳かきの先ほどの刃先をした小道具を使い、
それこそ耳糞ほどの小さな削り滓を、息を詰めて削り出して行く作業だ。
動かすのは指先をほんの少しだけ。
何時間もその作業を続けると、次第に色々な感覚が遠ざかる。
胡座をかいたまま痺れた脚、俯いたままの首、空腹感、時間の感覚、
思い煩っていた日常の瑣末な出来事。
音が消え、周りの物が意識の中から一つずつ消えて行き、
最後には対峙している木と、自分の目、指先だけがぽつんと残される。
意識の中に残された自分は、だからもう人の姿を留めてはいない。
何かを彫り続ける「モノ」に変わり果てる。
そして不思議な事に、それがちっとも苦痛ではないのだ。
首の痛みも、丸めた背中が軋むのも、脚が鬱血するのも、
彫る「モノ」に変っている間は、ちっとも苦にならない。
出来得るならばそのままの姿で、「モノ」に成り果ててしまいたいとさえ思う。
その悦びを知ってしまったから、辞められないのだろう。
その怖さを知ってしまったから、生半に関われないのだ。


そうして夢と現を行き来するうちに、時折巧く戻って来られない事がある。
そんな時は虚ろな目をして、おかしな事をしたり言ったりしたけれど、
お互い様。誰も笑ったりはしなかった。
何か食べて、少しずつ音が、味覚が、身体の痛みが戻って来る。
そうやってすっかり人らしい姿に戻ると、
アトリエを掃除して、よれよれと木屑だらけのまま家に帰って行った。


木を彫りながら、そんな事を思い出していた。
今日は久し振りに、こちら側に戻って来るのに
少々梃子摺ったからかも知れない。