昔は
食べ物にしろ 洋服にしろ 音楽にしろ
これは好き、これは嫌い、
の境目がはっきりとしていて、
心から好きだと思えるもの以外には
まるで興味が持てないばかりか、
許せないとさえ思う事もあった。


そうした狭量さが、若さ故の 無知で未熟で
貧弱な精神を守る為の防具として機能していたのか、
或いは逆に、選んだもの以外は
ばさばさと切り捨てて行ける潔さ であったのか、
それはよく解らない。


どちらにせよその頃の僕は
今よりもずっと ぎすぎすとしていて、
横暴で 我侭で、それでいて 純粋だった。
今になって思うに、それはとても性質が悪くて
傷つけるのも傷つくのも得意、という
何とも扱い難い人間であった様な気がする。


食べ物に関して言えば、誰かと外食をしても
メニューの中に食べられるものを見付けられずに、
米と漬物だけをつまんでそれで満足という
異常なまでの偏食家だったのが、
今では好き嫌いは殆どなく、何を食べてもそれぞれに
それなりの旨さ があると感じる様になった。
たとえそれが好物とは かけ離れたものであっても。


甘い卵焼きは大嫌いだった。
今は、それはそれで たまには良いな、と思う。
食べてみれば美味しいものだ。
それを知らなかった、解らなかったというだけなのだろう。


色んな味付けがあっていい。
甘いのも、塩っぱいのも、酸っぱいのも、或いは苦いのも。
それぞれに個々の旨味がある。
それが解って、食事をする事が好きになった。


着た事のなかった服、聴いた事のなかったジャンルの音楽。
新しいものを試す度、楽しめる事の幅がほんの少しずつ増えて行く。


許せるものが増えると、気持ちが平らになっていい。
そう思える様になって、随分色々な事が変った気がする。


人も同じだ、と思う。
「色々な味」を持った人が居る。
なかなか食べ物の様には行かなくて、
僕はまだかなりの偏食家だけれど、
「色々な味」の旨味が解る様になったら
今よりもっと平らな気持ちで居られるだろう。




しかし、そうして穏やかでいられる時間を手に入れた代わりに
何処かが少し磨耗したかも知れない。
何かを忘れて来たのかも知れない。


ほんの僅かな好きなものだけを選んで、
それさえあれば満足だった頃を想う事もある。


懐かしく思い出してみたところで、
今更戻れる筈もなく、戻りたい訳でもない。
好きなものだけに囲まれて暮らす事など、到底不可能だ。
ならばやっぱり、ぎすぎすと憎むべきものは、
出来るだけ減らしておいた方が良い。