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うろ話し うろ話し


よく動く長い尻尾。
黒くて小さな、素早い影の様な猫だった。


大好きだった黒猫の事を思い出した。
美術予備校の敷地内に住んでいて、
その頃から講義を抜け出す癖のあった僕は、
アトリエの中に居るよりも
その猫と居る時間の方が長いくらいだった。
黒猫はいつも腹を空かせていて、
とっておいた弁当のおかずでも
木炭デッサンに使うパンの耳でも
差し出せば何でも食べた。


その頃の僕は、父のお下がりを仕立て直した
分厚くて重たいコートを着ていて、
黒猫はそのコートの肩に跳び乗るのがお気に入りだった。
呼ぶと必ず何処かから走り出して来て、
何の迷いも見せずに肩に乗った。


僕はそのまま人気のない階段の裏に行っては、
煙草を吸いながら長い時間をその黒猫と過ごした。
寒くなれば黒猫を懐に入れて互いに暖め合ったし、
腹が減れば持っているものを分け合ったし、
小さな、大切な友達だった。
閉門時間が来ても離れ難くて、
このまま、肩に乗ったまま一緒に来るなら、
朝まで掛かっても電車を使わず歩いて帰ろうかと
何度もそう考えた。


しかし黒猫は、予備校の敷地内から外へは出たがらなかった。
一緒に行くのは駐車場の入り口まで。 そう決めている様だった。
そこまで行くと、トン、と肩から跳び降りて、
ここでお別れだよ、とでも言う様に一声鳴き、
自分の世界へ戻って行く。
いつもそうだった。


上京が決まって別れる時、
いつもよりも少しだけ御馳走を振舞い、
いつもよりも長く一緒に過ごした。
肩の上の、その軽すぎる感触を、
満足そうに喉を鳴らす音を、目を閉じて刻み込んだ。
いつもの様に駐車場の入り口に差し掛かった時、
黒猫は一瞬躊躇して、すぐには肩から降りなかった。
僕は立ち止まって待った。
黒猫は肩の上で尻尾をゆらゆらと振って、
トン、と跳び降りてこちらを振り向いた。
肩が軽くなった途端に、身体が急に冷えて
寒い、と思った。本当に、寒い。
一緒に居れば少しも寒くないのに。
黒猫の後姿を見送って、コートの襟を立て、顔を隠して帰った。


上京してあっという間に数ヶ月が過ぎ、最初の夏が来た。
初めての帰省。
予備校へ行った。
お世話になった講師に挨拶に、と言うのは口実で、
鞄には黒猫が好きだった蒲鉾や煮干が沢山突っ込んであった。


挨拶もそこそこに教室の外に出てきょろきょろしていると、
事務で働いていた顔見知りの女性が
「猫を探しているの?あの猫、もうずっと姿が見えないのよ」
と話し掛けて来た。
夏なのに、暑い筈なのに、汗が冷えて行く気がした。


僕はいつもの様に、小さく細く高く、口笛を吹いた。
すぐに後ろから耳慣れた鳴き声が聴こえて、
小さな黒い影が走り出して来た。
艶やかだった小さな身体は汚れて更に軽くなり、
磨き込まれた翡翠の様だった緑の瞳は目脂で半分塞がり、
白い膜が掛かっていた。


事務の女性が、「信じられない!信じられない!」
と何度も口にして、ハンカチを探している。
生憎と彼女はハンカチを持ってはいない様だった。
彼女は化粧が崩れた顔で泣き笑いして、
「良かったねえ、良かったねえ、これから毎日美味しいものあげるからね」
そう言いながら黒猫を撫でた。
黒猫は満足そうに喉を鳴らして、僕が差し出した蒲鉾を平らげた。




黒猫を見掛けたのは、それが最期だったと後で聞いた。
僕の上京と同じ時期に居なくなり、
その夏の日、只一度だけ姿を見せた。
事務の女性は僕が黒猫をコートの肩に乗せ、
階段の裏で長い時間を過ごしていたのを、
事務局の窓から何度も目にして知っていた、と、そう言った。
お別れに来たんだね、と。




僕はちゃんとお別れが言えただろうか、と今でもそう思う事がある。
あの時、あの小さな大切な友達に、ちゃんとお別れが出来ただろうか。
ちゃんと「さようなら」と言ってあげられただろうか。