名前のない魔物
先々月入院した兄は、比較的軽度の脳梗塞だった。
思っていたよりも早くに退院し、仕事にも復帰した。
色々の不自由もある様だけれども、一先ず胸を撫で下ろす。
胸を撫で下ろしたところで今度は自分の体調が悪くなり、目眩が酷くて数日寝込んだ。
乗り物酔いの様な状態が続いたのが辛かったので、観念してずっと先延ばしにして来た再度のMRIを受けに行った。
もっと設備の整った病院で早急に血管の専門医による診断が必要、とのことで、すぐに紹介先の病院でもMRIを撮る。
脳動静脈奇形とされていたけれども、病巣の場所が微妙に脳幹から外れた場所にある様に見える事から、おそらくは脳動静脈瘻か、静脈血管奇形ではないか、とのこと。
何れにせよ珍しい病気で、独力で得られる情報は多くない。
海綿状血管腫もあるかも知れないが、これ以上の精査をするとなると、リスクも伴うことを告知される。
数ヶ月に一度MRIを撮って経過観察を続ける、というのが一番穏やかな方法だろうとのこと。
この先に記す事は自分の備忘録として残しておく為の物なので、もし同じ病気の方が目にする事があっても、参考にはしないで欲しい。
体質や、脳のどの場所に病巣が出来るか等、様々な条件で全く違った反応が現れる事が考えられるし、緊急性のある場合もないとは言えないので、僕の様に何年も放置したりのんびり構えていて大丈夫だなどと思われては困る。
あくまでも僕の場合にはこんな事が起こった、という記録に過ぎない。
最初に異常に気づいたのは、2012年の中頃だったと思う。
安静時でも心悸亢進が激しく、すぐに動悸と息切れがして満足に歩けなくなった。
元々高い方ではなかった血圧が急に跳ね上がり、最初は心臓の異常を疑って検査を受けた。
血圧と頻脈を抑える為、降圧剤とβブロッカーの服用を開始。
検査の結果、心臓の異常は見つからず、原因の特定が出来ぬまま薬の服用を続ける。
この頃から、数ヶ月ごとに嘔吐を伴う激しい頭痛に襲われる様になる。
鎮痛剤を飲んで眠れば翌日には嘘のように楽になっていて、再現性もあるとは言えないくらい間が空くので、ついそのまま過ごして病院へは行かず。
元々酷かった耳鳴りは止むことがなくなり、それはこれを書いている今も続いている。
時々は会話も困難なほどで、もう耳鳴りのなかった頃の静寂を思い出そうとしてみても虚しいだけだ。
それでもそんな状態で何年も過ごすうち、症状に一つ一つ対処していくコツのようなものも掴めて来て、頭痛は気配を感じたら我慢せず早めに鎮痛剤を使い、動悸は安静時に100近くになったらβブロッカーを服用、血圧も下が100近くなったら降圧剤と、それぞれをやり過ごす事で何とか凌いで来た。
耳鳴りと目眩だけはどうする事も出来ず、耳鳴りは出来るだけ気にしないようにしているけれど、目眩はそうするわけにもいかずに数日寝込む事もあるけれど、そんな状態でも子を持てたし日々の暮らしをそれなりに楽しんでもいる。
血流に異常が起こっているのは確かに感じる。
毎朝手足が重怠く、心悸亢進の起こり始めた頃には目の下が真っ黒になって、下手なドラマの大げさな病人メイクをした役者のような顔になった。
死相というのはこういうものか、と自分でも感じるくらい血色が悪かったけれど、不思議とその後段々に解消されて、今はそうした事も時々にしか起こらない。
両目が酷く充血する事もあり、それは血流の異常から眼圧が上がり過ぎるからということらしい。
そんな日には視界も酷くブレて、かなり大きな文字も読むのに難渋する。
視界のブレに気付いたのは遠くの高層ビルの上にある安全灯を見た時で、やけに縦長の照明だな、と思ったのだ。
あんなに長い形の照明が必要なのかな、と不思議に思った。
首を傾げてみると、その照明は僕の傾げた角度に合わせて斜めに伸びた。
視界が縦にブレていたのである。
充血が酷くなると、段々に目が飛び出してくることもあるという恐い記事も目にして、これには少し参った。
手足の怠さがあまりに酷い時には妻に頼んで思い切り踏んでもらう。
掌も足の裏も、全体重を乗せて思い切り踏んでもらう。
これが効果覿面で、踏んでもらった直後には、こんなに息を吸うのが楽なのが当たり前なのか、と感激するくらい呼吸が楽になる。
いつもは高山に暮らしているかと思うくらいに酸素が不足しているのを感じる。
耳鳴りも目眩も、頭痛や動悸も、脳の血流の異常が原因ではないかと疑っているけれど、それが正しいかどうか解らない。
何度めかの激しい頭痛の後、MRI検査を受けて脳動静脈奇形と思しき物が見つかったけれど、その病名も今度の検査で怪しくなった。
病名が分からないと何だか気持ちが悪いけれども、積極的な治療に踏み切れない状態でこれ以上の精査を望めばリスクを伴うとの事なので、経過観察を続けていくしかない。
今一番欲しいのは情報なのだけど、「名前のない魔物とは戦えない」というファンタジー小説の設定のような壁が立ちはだかっている。
調伏する為には、まず名を知らなければならない。