父のこと

 父が亡くなった。

四月にこの日記に父の事を書いてから五ヶ月。

病院のベッドで、安全の為に着けられたミトンを嫌がりながら、何度も危険な状態になりながら、呆れるほどの強靭さでその度に持ち直した。

もう回復の見込みが無いのなら、出来るだけ苦しまないで楽にしていて欲しい、という僕の甘い考えを見透かす様に、最期まで父は父らしく、戦い続けて逝った。

我慢と忍耐が服を着て歩いている様な、そんな人だった。

痛いだの辛いだのと弱音を吐く姿を一度も見た事がない。

こうあるべき、という姿を徹底して貫き通した。

また、そうした為に家族との距離も生まれた。

自分を律する、という事に本当に厳しかった。

誰よりも早く出社して掃除をして仕事を始める社長の下では、社員はさぞ辛かろう、社長出勤の意味が違う、と母がこぼしていたのを憶えている。

経営者たる者こうあるべき、家長はこうあるべき、男はこうあるべき、という姿勢を頑として崩さなかった。

崩れた姿を誰にも見せない。

弱いところを子供達の前では絶対に出さない。

そもそも弱い部分があったのかさえ疑わしい、と思わせるほどに。

隙がなさ過ぎて、近寄り難かった。

子供の頃、友人が遊びに来て僕と父の会話を聞くと決まっていつも訊ねられた。

「本当のお父さんなんだよね?どうしてそんな話し方なの?」

他の家ではどうもこうじゃないらしい、という事を、その頃になってようやく知った。

そうしなさい、と言われた訳ではない。

知らず知らずのうちに、父に話し掛ける時には敬語を使うようになっていた。

もっと親しく話せたら、もっと言葉数を多く交わせたら、聴いておくべき事は山ほどあったのに、そうすべき時に僕はそうしなかった。

十八で家を出るとそれ切り、盆にも正月にもろくに帰らなかった。

何と浅はかだったろう、と今にして思う。

口数の少ない父が、絶対に自分では電話を掛けて寄越さない父が、何度も母に電話を促して僕の様子を気に掛けていたのを知りながら、僕はその事について深く考えずにいた。

気付かないふりをした。

父の子供時代の事を殆ど知らない。

戦争に行った事、シベリア抑留の事、母との出会い。

そういう話をもっと訊ねておくべきだった。

知っておかなければならない事が沢山あったのに、聞かなかった。

父も、自分から多くを語ろうとはしなかった。

 

住職が戒名を決める参考に、と言って、父の事を訊ねられた。

子供が三人いて、誰も趣味を答えられない。

厳格だった、という言葉しか出て来ない。

歳の離れた兄なら、僕とはまた違った言葉が出て来るものと思っていたのに、その答えは僕の持っていたものと寸分変わりない。

父とキャッチボールをして遊んだ事は、一度もない。

兄達もまた、そうなのだろうか。

 

幼い頃の父の思い出は、冬のまだ薄暗いうちに起き出して布団から出る時、自分が寝ていた布団の温もりが冷めぬ様に掛け布団をきちんとして、それから布団を指差して、寝ぼけ眼の僕に言うのだ。

「まだ暖かいぞ。」

僕は父の寝ていた布団に潜り込んで、もう一度眠る。

身体の大きかった父の布団は隅々まで暖まっていて、外の冷気から僕をすっぽり包み込んで、護ってくれる様だった。

 

冗談を言う人ではなかったが、好きな酒が入ると、少しだけ柔軟になった。

晩酌の後に父と母が何か話していて、それから母が何を思ったか、自分が着けていたカチューシャを父に着けようとした。

父も仏頂面をしてされるがままにしている。

頭の大きさが違うから、カチューシャをうんと広げて父の頭に着けようとした瞬間、母は手を滑らせた。

「パッチーン!」と大きな音を立てて、カチューシャが父のこめかみに直撃する。

父が珍しく「いてっ!」と声を上げ、母はその様子に慌てて父のこめかみを撫でながら謝る。

それからすぐに、可笑しくてたまらない、という風に顔を真赤にして笑い出した。

父もつられて、怒ったような顔をしながら吹き出す。

「笑い事じゃない」と言いながら、二人は暫く笑い合った。

そうした様子を見る事が子供に与える安心感のようなものは、計り知れない。

その瞬間、満たされて、そこに居られる事が本当に幸せだった。

今もはっきりと憶えている。

尤も、滅多にそんな出来事は起こらなかったけれど。

 

 

今日、父の額に手を当ててお別れをした。

吃驚するほど冷たくて、硬い額だった。

あの世、と呼ばれるものがもしもあるのなら、無事に母の処へ行けただろうか。

母はどんな顔で出迎えるだろう。

きっといつもの様に笑って、小走りに駆け寄る。

父は照れ隠しにわざとゆっくりと歩を進め、軽く敬礼をするみたいに額に手を当て、「よう。」と言う。

 

どうか、安らかに。

あなた達の息子で、幸せでした。