歓喜の歌

子が早くに寝静まった日には、僕の部屋で妻と映画を観る。

昨日も二本ほど観終え、それぞれの部屋に別れてパソコンに向かった。

部屋を暗くしたまま暫くパソコンの画面を見ていると、ごく微かな音量でハミングが聴こえて来るのに気付いた。

知らずにブラウザで何か再生していたかと思って確認してみたが、そうではない。

どこか懐かしい感じのする、聞き覚えのあるメロディだった。

これは何の曲だったろう…とその声に耳を澄ませた途端、歌声は僕のすぐ後ろに迫って来た。

微かな吐息を感じるほど近く。

ほんの僅かな間だったが、まるで後ろから肩に手を掛け、耳許で囁かれているように感じた。

今にも首筋に長い髪先が触れそうな気さえする。

驚いて振り向くと同時に、歌声はかき消すように止まった。

高く澄んだ女性の声で、ゆっくりとした静かな歩調で、心地よい夜風にあたりながら散歩を愉しんでいるような、そんな歌い方だった。

今も耳に残っている。

驚いて思わず振り向いてしまったけれど、そうせずにもう暫く聴いていたかったと思わせるくらい、柔らかで耳触りの好い声だった。

妻の部屋へ行って、今鼻歌を歌っていなかった?こんな感じのメロディーなんだけど…と訊ねると、それはベートーベンの第九、歓喜の歌だと言う。

不思議と怖いとか薄気味悪いとかは少しも思わず、ただいつまでも耳に残る歌声が気になって、少しでも近いものが聴けないかと動画サイト等で探してみたが、どれも違う。

探そうとすればするほどあの歌声が遠退くようで、探すのはやめにした。

 

次の日になって、ベランダに出て一服した後、部屋へ戻ろうと振り向くと、暖かな日差しを浴びて、アボカドが葉を揺らしている。

そのアボカドは、食べ終わったのを僕が面白半分に水栽培し始めたもので、日の当たらないキッチンの片隅でひょろひょろと茎を伸ばし、弱々しく潮垂れていたのを、妻が気の毒がって、昨日鉢に植え替えをしてベランダに出したのだった。

 

アボカドはか細いながらも、初めて浴びるお日様の下で、いつになく葉をぴんと広げ、ゆらゆらと風に揺れながら歓喜の歌」をハミングしているように、僕には見えた。