麦藁帽子

僕が生を受けるずっと前、父と母が出会った頃の話。
初めて一緒に海水浴に行った時の事を母が聞かせてくれたのを思い出した。


仕事仲間で海へ出掛けた中に、親しくなり始めていた父と母がいた。
当時としては大胆なデザインの水着を着た母を見て、
父は憮然とした表情ですぐに何処かへ去り、
暫くして戻って来ると、その手にはとてもつばの広い麦藁帽子を抱えていて、
「日に焼ける。」とだけ言って憮然としたままそれを差し出した。
母は父が何故そんなに機嫌が悪くなったのか判らぬまま、
随分と気難しい人だな、と思いながらその帽子を受け取った。


父と母はおよそ十年ほど歳が離れている。
その頃母はまだ歳若く、小柄で幼顔。
父は上背があり、実年齢よりも老けて見られる事を利用して歳を偽り、
仕事上の取引等でなめられない様に虚勢を張っていた。




母からこの話しを聞かされた時、僕はほんの少し複雑な気持ちになった。
父と母にそんな時代があった事は、何だか可笑しくて愉快。
しかし、輪に入って行く事の苦手な父の気難しさを
多少受け継いでしまったらしい自分に気付き始めていた僕は、
もっと別なところが似れば良かったのに、などと思いながら、
母の無邪気な笑い声を聞いていた。


もう口下手で寡黙なのが“男らしい”などと
許される時代ではなくなってしまったし、
何でも口に出せる方が、きっと楽に違いない。
巧く口に出せずに呑み込んだ言葉の数だけ、
父の眉間の皺は深くなって行ったのだろう。
年老いた父の口は、それは見事な「へ」の字だ。