友人が年老いた御母堂を伴って立ち寄るとの知らせ。
数日間逗留して行くと言うので、喜んで部屋の仕度などする。
(夢の中での住まいは何処か知らない場所だった
何処も古びてはいるが、広々として部屋数が多い)


ほどなくして現れた友人は、「よう、久し振り」と言ってニヤリとして見せた。
見慣れた笑い方だったが、少し疲れている様に見えて気に掛かる。
暫く会わない間に毒気が抜けてしまっていた。
人の事は言えないが、歳月は情け容赦なく生気を奪って行く。


一方、友人を従えてやって来た小柄な女性は、もうかなりな御歳になる筈だったが、
背筋はシャンと伸びてきびきびとした物言い。
上品に纏められた銀色の髪は、落ち着いた藤色の着物によく合って
凛とした雰囲気を醸し出している。
疲れた様子の友人とは対照的に、何処か楽しげで溌剌としている。


お茶を勧めて暫く談笑した後、彼女が
「済ませたい用事があるので一寸失礼」と言って立ち上がった。
慌てて友人も立ち上がる。
同行しようとする友人に、彼女は少し怒った様な顔をして
「すぐそこまで行くだけなんだから大丈夫、あなたはゆっくりしてらっしゃい」
ぴしゃりとそう言い置くとすぐに笑顔になってこちらに会釈し、
さっさと出掛けてしまった。
友人はその後姿を、困った様な顔しておろおろと見送る。
「いつもああなんだ。帰り方が判らなくなるのに・・・」
すぐそこまでと言っていたしきっと大丈夫だよ、と宥めたが、
彼女のしっかりとした様子からは、帰り道を忘れるなど、到底想像もつかなかった。


友人が心配していたとおりになってしまった。
外はすっかり日が落ちて暗くなり、酷い雨になった。
もう何時間も過ぎたのに彼女が戻る様子はない。
手分けして探しに出ようか、と話しているところに電話が鳴った。
友人が機転を利かせて彼女に持たせておいたメモ書きに、
こちらの連絡先がある事に気付いたのだ。


「戻り方が判らなくなってしまったの」と告げる彼女の声は、
先程とうって変わってか細く哀しげで、失礼にならぬ様、これ以上傷つけぬ様、
口の利き方に気をつねばと思う。「今居る場所が何処か判りますか」と訊ねると、
彼女が告げた場所は、意外にもここから随分と離れた駅名だった。
すぐに迎えに行きます、と答えたのだが、最寄り駅まではどうしても自分で行くと言う。


疲れ切った様子の友人には留守を頼む事にして、傘を掴んで駅へ急いだ。
今度は駅員を伴って改札に現れた彼女は、少し恥ずかしそうに笑って
小さな声で「どうもありがとう」とだけ言った。
駅員が彼女に恭しく頭を下げて戻って行く。
「いいえ」と答えて、濡れてさっきよりも濃い紫になった彼女の肩口を
ハンカチで掃った瞬間に、不思議な光景が浮かんだ。




料理をしながら、側に立っている男性と何か軽い口論をしている女性。
まだ歳若い頃の彼女の姿だ。
口論と言っても激しいものではなく、
彼女が何かを拗ねて後ろの男性を責めている様子だった。
男性は彼女の夫だろうか。
困った様子で後ろに近付いて来た男性に
彼女はフライパンを揺するのをやめ、中のものをへらで少しすくって
くるりと振り向くと、男の顔の前に突き出した。
へらの先から香ばしい湯気が漂う。(チーズオムレツだろうか)
男は一瞬驚いた顔をしてそのへらの先を見詰めていたが、
すぐに目を細めて匂いを嗅ぎ、パクッと頬張った。
香ばしく焼けたばかりのチーズの香りが鼻に抜けて、
さも旨そうな顔をした次の瞬間には、目を白黒させて慌てふためいた様子を見せた。
口の中を火傷したらしい。
最初はクスクス笑ってそれを見ていた彼女が、
すぐに心配そうにコップに水を汲んで手渡す。
コップの水をごくごく音を立てて飲み干した男が、おどけて舌を出して見せる。
彼女も笑う。心の底から幸せそうな、美しい笑顔だった。




彼女の少し後ろを歩きながら、彼女の肩がこれ以上雨に濡れぬ様
精一杯腕を伸ばして傘を傾ける。
彼女の夫は、友人がまだ幼い頃に亡くなった。
共に長く暮す事は出来なかったのだ。
前を行く彼女の肩や首は痩せて細く、心許なげに見えたが、
少し立ち止まって息を整え、背筋を伸ばして振り向いた彼女の顔は、
美しく自信に満ち溢れていて、最初に見た時の快活さを取り戻している。
幸せだった記憶が、深く愛された経験が、今も色褪せずに彼女を包み込んで
穏やかな自信と輝きを与えていた。


いつも横柄な駅員に恭しく頭を下げさせる何か。
彼女の為なら雨に濡れる事を厭わせない何か。
彼女をやわらかく包み込んで護っているのは、そうした何かだ。
僕はそうしたものになら躊躇せずに傅こう。
彼女の夫が残していったもの。彼女が受け取って今も手放さずにいるもの。
それらを堪らなく愛おしく思う。