先日人と話していて思い出した事。


美術学校に入ってすぐに、
木を素材にして自分の手を彫らせる という課題があった。
必要最低限の道具が与えられ、限られた時間内に
自分の利き腕ではない方の手で時々握り拳を作り、
それを見ながら彫るのだが、これが驚くほど巧く行かない。


人の手というのは身体の中でも特に多くの関節や腱が集まっていて、
精密機器の様に複雑な動きを可能にしている。
指先の繊細な動きをコントロールする為の腱や筋が複雑に、
それでいて緻密に配置されていて、皮膚を通してその動きを見る事が出来る。
部位としては小さいが、そこには膨大な情報量が集積されている。
外科的な手術を行うのにも特に高度な技術が必要とされる部位であるとか、
大型の肉食獣がその動きに敏感な為に、それらの生き物と接する職業の人たちが
厚い生地の手袋で手の甲を覆い、腱や筋肉の動きを隠す、とも聞いた。


形状だけでもその様に複雑な部位だが、
そこに動きが加わると、それだけで個別に意思を持った、
何か別な生き物なのではないかと思わせるほどに、更に複雑で興味深いものになる。
その人の経験や、時にはものの感じ方、考え方までもが
その動きの一つ一つに如実に表れるからだ。
ドアノブを掴む手、包丁を使う指先、鞄から何かを取り出す時、
握手をする時の指先の力加減、名刺を渡す時の仕草、
湯呑み茶碗を包む指先に、テーブルに下ろす時の速度に、
その人が表れる。


指先や手の動きを見ていると、その人が少しだけ解る気がして、
僕はつい手の動きを追ってしまう。
大切なものに触れる時、どんな風に動くのか。
嬉しい時、悲しい時、腹立たしい時、どんな表情を見せるのか。


時々、とても好きな手を持った人に出会う。
胸に抱いた子供の頭を支える母親の手や、
誰かの背中に労わる様に添えられた指先や、
猫を撫でる時のそっとした優しい仕草や、
そうした大切なものに触れる時の仕草は特に美しく、心惹きつけられる。




必死に彫った僕の握り拳は、それはそれはお粗末な出来で、まるで岩の様に見えた。
開いても人の手の形にはなりそうもなかった。
ごつごつと節くれ立った短い指は、関節のバランスが間違っていて、
きっと猫を撫でる事も、何の道具も握る事が出来なかっただろう。