応接間に置かれていた琵琶の事を思い出したら
芋蔓式に別な物の記憶も辿る事になった。


応接間の飾り棚に入っていた
真珠貝で出来た小さな彫り物の事。
それは人の腕の形をしていて
手首には小さな数珠が巻かれ、
小さな爪までが丹念に彫り込まれている。
柔かく握られた華奢な拳は、恐らく女性のものだろう。
力を入れてしまったら崩れてしまう大切な何かを逃すまいと
慎重に握り締められている様に、僕には見えた。


真珠貝は日の光に翳すときらきらと輝いて、複雑に色を変化させる。
僕はそれが面白くて、時折こっそりと棚から取り出しては、
飽きもせず眺めていた。 
ある時、それを父に見咎められた。
「それはおもちゃにしてはいけない。すぐ棚に戻しなさい。」
父の静かな声が微かに震えている。
「それを作った人は もう亡くなってしまったから。」
僕が急いで彫り物を棚に戻すと、父は哀しそうな、
少し怒っている様な、戸惑っている様な、
複雑な表情をしながら飾り棚の扉をゆっくりと閉めた。
父のそんな顔を見るのは、それが初めてだった。


その彫り物を作ったのは
父が仕事関係で知り合った若い男性だった。
彼はノイローゼで(当時は少し情緒不安定だとすぐにそう言う傾向があった)
何度か自殺未遂を繰り返していた。
父はその人を家に呼んで、懇々と諭した。
「君はまだ歳若く、この世に何も残してはいない。
今死んで悔しくないか。惜しくはないか。
せめて何か一つでも生きた証しを残したくはないか。」
父なりに必死に思い留まらせようとしての説得だったのだろう。
男性は長い間押し黙っていたが、やがて
「わかりました。」とだけ答えて帰って行った。


一月以上が過ぎ、彼の事を気に懸けながらも
日々の暮らしに追われていると、ある日突然彼が庭先を訪ね、
「これを受け取って下さい。」と言って小さな包みを差し出した。
父が受け取って包みを開けると、見事な細工の彫り物が入っている。
彼はそれまで一度も彫り物などした事がないと言う。
真珠貝は硬く、思い通りの形に仕上げるには熟練した技術と
何より根気が必要な素材だ。
それを彼は一月かけて彫り込み、丹念に磨き上げていた。
父が見事な出来映えを誉めると、
彼はとても嬉しそうに笑ったのだ、と言う。


彼が亡くなったのは、それから暫くしてからの事だった。
自殺だった。
彼は最期に父の手許に、「生きた証し」を届ける為にやって来たのだ。
父はそれを「生きて行く証し」だと思って受け取った。


彼が何故自殺しなければならなかったのか
その理由は知らない。
僕は訊かなかった。 訊けなかった。
僕は「どうして自分で死ぬの」と訊いた。
人が自分の意思で死を選ぶ事がある、というのを
僕はその時初めて知った。




父の届かなかった思いと一緒に、
それはまだ飾り棚にぽつんと置かれている。
軽く握られた拳は、その華奢な腕で
本当は何を掴みたかったんだろう。
何を逃したくなかったんだろう。


律儀に何かを作り出して
生きた証しなんて残さなくったっていい。
ただ何となく生きてたっていい。
人生の目標だの、生きた証しだの、
そんな大仰なものがなくったって
すまなさそうにこそこそ生きてたらいい。
胸なんて張らなくていい。
情けなく生きたらいい。


もしそう言ってやったら、何かが変っただろうか。
やっぱり何も変らなかっただろうか。




飾り棚のそこだけが、
いつも少し哀しいのだ。
いつも少し寂しいのだ。
父はそれを、いつも自分の目に入る場所に置いておく。
そうしてそれが目に入る度、
哀しい様な、怒っている様な、困った様な顔をする。