死者の助け

長年お世話になった恩師の死、甥の死、両親の死。

様々な形の死について、考えさせられる機会が多くなった。

これは自分が歳を重ねた結果として自然な事であるし、自分の死については割合感傷的にならずに冷静に考える事が出来るが、妻や子の事については、これはもうどうしても考える事を避けたい、という気持ちが強く、ありとあらゆる手段を講じてそこから目を逸らそうとしてしまう。

人の生き死には、病気や事故など、ありとあらゆる理由で予測不可能なものではあるので、絶対に自分が先に逝ける、という保証はないのだけれども。

だからこそ何処かに、残していく人に伝えたい事を言葉にして置いておけるといいね、というような事を妻と話した。

あ、そういえばこの日記には予約投稿という機能があったな、と思い出す。

どれくらい先まで予約しておけるのか知らないけれども、今現在思っている事を書き留めておくには便利かな?などと考える。

遺書や遺言というほどの重々しいものではなく、もし明日突然に終わりが来たら、最近はこんな事を考えていたよ、というような置き手紙程度のもの。

そうしてみると、予約投稿の日を決めておくのが難しい。

何だか図ったように予約投稿される日の直前に不慮の事故に遭う、とかいう無駄に劇的な展開になるのも癪だし、あんまり先延ばしにしても意味がないようにも思うし。

軽めの遺書及び遺言、定期更新。とかにして、決められた期日にどんどんメモ書きを書き連ねるみたいに更新していくのがいいかな。

お買い物メモに、あ、あれも要るんだった、と書き足すような感じで。

 

上の子が、「どうして死んじゃうの?」とか「死んじゃっても治してもらうから大丈夫!」とか言うようになって、五歳児なりの死生観を語るようになってきたから、尚更あれもこれも伝えておきたい、というような事が増えるのだけれど、でもそれは今じゃなく、もう少し先の、最善と思えるタイミングで話したいのだ。

 

奥さんに、もしも僕の葬儀で喪主の挨拶をする事になったら、「夫は常々、死ぬのは長いトイレに行くようなものだ、と言っておりました…。あいつ、なかなかトイレから戻って来ないな、便秘かな?くらいの気持ちで見送ってやって下さい。」ていうのはどうかな、と冗談交じりに言っているのだけれど、満更嘘でもなくて、誰でもトイレに行くように、誰でも一度は死ぬのだ、と思っている。

待っても二度と戻って来ない、長い長いトイレ。

別れの言葉としては、ちょっと品がなさ過ぎるだろうか。

子供達には、命は最大限大切に、でも死を畏れるあまり、それに囚われ過ぎて生きる事を楽しめなくなって欲しくない。

自分も、最期の最期まで、目を向けさえすればお楽しみはきっとある、と思いたい。

 

父や母の死を経験し、それまでそれなりに持っていたつもりの死生観が微妙に形を崩し、新しいものに変化しつつある。

それは父の言った事、母の言った事を、彼らの生前よりもより強く意識するようになったからだ。

父ならこんな時こう言うだろう、こうしただろう、母ならきっとこう言うに違いない、という思いが、何かを判断、決断する時に随分助けとなっている。

これはきっと怒られるだろうな…と思いながら、彼らの言葉に背く事もけして少なくはないのだけれど、それでも一人で考え込んでいた時よりも、少しは多面的に物事を見られるようになったように思う。

以前の僕ならこうしたろうけど、それはきっとお叱りを受けるだろうな、彼らならこうしたかな、それでは別な方法もあるかも知れないな、もう少し考えてみようかな、という具合に。

生前は聞く耳を持たず反発したりして、随分と不義理の限りを尽くしたというのに、皮肉なものだ。

死者の助けを受けている、と言うと妙な感じだけれど、肉体の死とは別に、彼らの精神の一部は僕や彼らを記憶に留めている全ての人達の中に様々な形で存在し、それがあるうちは、少なくとも僕の中には、別な形での彼らの「生」がある。

そんな風に考えるようになった。

僕もまた、家族の中に、そのように何かを残していけたら幸せだと感じる。

その一助として、曖昧で掴みづらい僕の一部を、こうして書き残しておこうと思う。

 

 イショおよびユイゴンみたいな置き手紙、ていうカテゴリーを作ろうかな。