溜息

年末に子がインフル羅患などして、気がつけば年も明け、早くも月が変わろうとしている。

時が経つのが早過ぎて、気持ちがちっとも追いつかない。

忙しい、などと言ったら叱られそうな、ぐうたらした毎日である筈なのに、どういう訳だか慌ただしくはあって、色々な余裕がない。

良くないな、と思う。

これでは本当に忙しい毎日をおくっている人達に申し訳が立たない。

ぐうたらするにも作法がある、と思う。

もっときちんとぐうたらしなければ。

 

先日の話。

雪が降った。

薄っすらと積もった雪。

次の日が晴れさえすれば、跡形もなく消え去ってしまいそうな儚い雪。

けれども、陽の温もりから忘れ去られたような裏通りには、薄く硬い氷となって、幾日も幾日も未練がましくしがみつく。

家は生憎とそんな道路に囲まれた場所にある。

おまけに滑って転ぶには絶妙な坂道で、小さな子二人の手を引いて歩けば、坂を登り切る前に少なくとも三度は転ぶに違いない。

角を曲がり切れずに斜めになりながら滑って行く車を窓から見下ろして、保育園は休ませる事に決めた。

前の日から段々に酷くなる子供の咳が気掛かりな事も手伝って、その週は家に引き篭もって、あれやこれやと世話を焼きながら過ごす。

少し具合が良くなってくれば子は退屈を持て余すので、週末には買い出しに連れ出した。

帰ってからまた夕餉の支度をするのも億劫で、出来合いのものを買い込んで来て、皆でつついていた。

子供達はいつも通り騒がしくじゃれ合いながら食事をしている。

僕と妻も、何かを話していたと思う。

何を話していたのかは思い出せない。

おそらくは、最近は野菜が高くて困るだの、遅い時間にスーパーに行くと寿司が安く買えて助かるだのといった、とるに足らない事だろう。

突然、女の声がした。

それはあまりにもはっきりと、食卓からごく近い場所で聞こえたので、妻と顔を見合わせて驚くのに、妙な間が出来た。

二人ともすぐに反応する事が出来なかった。

それから妻が席を立って僕に玄関を検めて来るよう促し、珍しく怯えた表情になって子供達を庇うように傍に立った。

玄関は勿論施錠されており、何の異常もなかった。家中の何処にも変わったところはない。

妻は自室の方から聞こえたと言い、僕も自分の部屋の前辺りから聞こえた様だと思った。

それは猫の鳴き声にも、悲鳴にも似た、女の大きな溜息だった。

「はぁぁぁ〜〜ん」

絶望と強い諦めを含んだ様な、いつまでも耳に粘りつく様な、間延びした嫌な響きだった。

溜息の癖に妙に主張が強い。

はっきりとし過ぎている。

騒がしく食事をしていた最中の事でもあり、ほんの一瞬聞き流して箸を止めずにいたのだけれど、それでも顔を見合わせた瞬間、二人ともはっきりと異常な事が起きたのだ、と認識した。

別な階から聞こえた可能性や、外から聞こえたのかも、とも言い合ったが、二人ともそうではないと解っていた。

そんな遠くから聞こえたとはとても思えなかった。

すぐそこで声がしたのだ。

締め切った窓の外や、厚い壁を通した別な階などからではけしてない、手の届きそうな距離でこその生々しさがあった。

だからこそ妻は危険を感じたのだろう。

妻は、先程帰宅した際に施錠を忘れて誰か知らない人が家の中に入って来てしまった、しかもそれは普通に話の通じる相手ではなさそうだ、と思ったらしい。

僕は最初、外から聞こえたのだ、と思い込もうとしたのだろう。

家の中から家族以外の声がする筈はない。

しかしその考えはうまく行かなかった。

 

怖いという気持ちよりも、何だか釈然としない居心地の悪さみたいなものが強くて、何か上手く説明をつけて「なーんだそんな事か」と言いたいのだろう。

けれども自分の知覚を疑ったり否定したりするのはなかなかに困難だ。

 

上の子が、「もうその話やめてー!」と怯え出したので、大丈夫、怖くないよ、と笑い合ってそのまま食事を続けた。

上の子もその声をはっきりと聞いていたからだろう。

僕はすぐに何だか可笑しくなってしまって、妙な事があるといつもそうなのだけど、一生懸命理屈をつけて何とか自分に納得のいく説明をしようと試みるのだけど、結局うまくいかないから、もう笑うくらいしか出来る事がない。

それでへらへらしながら「何だか不思議な事があるね。こんな話、きっと誰に話しても信じて貰えないね。」などと言いながら笑っていた。

 

それでもそのまま忘れてしまうには何だか惜しい気がして、ここに書き残しておく。

 

一月二十八日、九時半頃の事である。