もう随分とましになったのだけれど、先々週だったか、酷く腰を傷めた。
子供達を保育園へ迎えに行き、金曜だったから抱え切れないほどの荷物を自転車のハンドルに掛け、前と後ろに子を乗せてまるで曲芸師の一家にでもなったような緊張感で、慎重に、でもふらつかないような速度を保ちつつ、なるべく車通り人通りの少ない道を選んで遠回りして帰る。
帰ってすぐに子供達の手を洗いおむつを替えて水を飲ませ、腹を空かせて騒ぎ出すのを見計らってそれぞれの口にパンなどを放り込み、下の子が洟を垂らしているのに気付いてテッシュを手に取った。
テッシュは子が悪戯で全部箱から出してしまっていたので袋に入れてあった。
切れ端がふわふわと床に落ちる。
子が拾って口にしないとも限らないのですぐに腰を折って拾った。
背中を伸ばそうとした瞬間、背中に刺されたような痛みが走って、そのまま倒れ込んでしまった。
暫くは息をまともにするのも困難なほど痛くて、床に伏せたまま(先にテレビを点けておいて良かったな…)とか、(子供達に少し食べさせた後で良かった…)などと考えていた。
後一時間か二時間ほどで妻が帰宅する。
子供達はきっとそれまで静かにテレビを観ていてくれるだろう。


それから数日、立ち上がる事はおろか、寝返りを打つことさえ出来なかった。
トイレは、初日の晩に四時間掛けて洗面所まで這って行き、それでも僅かな段差が越えられず、トイレにもバスルームにも入る事が出来なかった。
洗面所の床に倒れたまま更に一二時間懊悩した挙句、恥を忍んでペットボトルに用を足した。
この調子では明日もきっと立ち上がれないだろうと考えて、尿瓶を注文してもらう。
これまでも何度か酷いぎっくり腰の経験はあるけれど、トイレには這ってでも行って、何とか人の手を借りずに用を足していたから、今度のは格別に酷い。
尿瓶は次の日すぐに届いたけれど、いざ使おうとすると巧くいかない。
もう諦めて使ってしまおう、と気持ちの上では覚悟を決めている筈なのに、身体がそれを拒絶する。
内なる声が、(どうなってもいいから自分でトイレに行け)、という。
チィさんでさえ、あの小さな痩せた身体でふらつきながらも、死ぬ間際まで自分で用を足したではないか。
二日目も矢張り何時間も掛けて床を這った。
芋虫の方がまだ早く進むだろう、というような速度でしか動けないから、洗面所へ着く頃には汗だくで息も絶え絶え、床に頬をつけて一息ついていると、何だか自分の姿が滑稽に思えてくる。
しかしここで笑い出したら気が遠くなるほど痛いだろうから、出来るだけ気持ちをニュートラルに保つ。
どんなに痛くともぎっくり腰で死んだという話はあまり聞かない。
何としてでも自分でトイレに行く!と決めて、アルミのバケツをひっくり返し、それを支えにして少しづつ姿勢を起こして行く。
体勢を変えようとする度背中が硬直するような強い痛みが襲って来るのを、必死にバケツにしがみついて痛みの発作が去るのを待つ。
もうこれ以上もたついていたら漏らしてしまう、という段になって、やっとこ意地で立ち上がって用を足せたが、痛いのと気が抜けたのとで目の前が真っ白になった。
それでも幾許かの矜持を取り戻し、用も足せたことで気分がましになったけれど、もう暫くは子の送り迎えも無理だろうし、おむつを替えてやる事も、食事を用意してやる事も出来ない。
どれくらいの時間で元通りになるのだろうかと不安になる。
妻に数日仕事を休んで貰わなくてはならないし、何をするのにも予め手順を決めて準備しておかなくてはならない。
次の日もその次の日も、トイレへ行く以外は殆ど身動ぎもせず、息を殺して過ごした。
腹も減らず、喉も然程渇かない。
何処かが痛いというだけでこんなに腹が減らぬものだとも、トイレへ行く回数が減らせるものだとも思わなかった。
何度かは兄や友人に頼んで、保育園へ迎えに行ってもらった。
硬いマットレスを買ってきてもらった。
四日目にトイレに立った時、こんなにも苦労して立ったのだからと、立ったついでに出来る事は全てしてしまいたくて、歯を磨き、シャワーを浴びた。
洗えるのは手の届く範囲だけで、しかも壁に凭れて何とか立っている状態だからかなり限定されるけれど、ここまで来てやっと何とか自分が芋虫ではなかったと思い出せた。
ずっと以前に使っていた松葉杖をついて妻の肩を借り、少しの間なら食卓に着いて一緒に食事をする事も出来るようになったし、一週間ほどで杖がなくとも立てるようになった。
僅かな間に片脚で立って、ゴムの緩いトランクス限定だけれど自分で着替える技を編み出したし、出来るだけ短い時間で痛みの発作をやり過ごすコツも学んだ。
不自由なりに色々と適応していくのが面白い。
もう二度と身動きする事が叶わぬのではないかというような気持ちにさせられるような、打ちのめされるような痛みだったけれど、助けてくれる人たちが居てくれたおかげで、何とかやり過ごす事が出来た。
鎮痛剤がたっぷりと手許にあった事も心強かった。


出来ればもう二度と体験したくないけれど、本当に突然で、全く予測する事は出来なかったし、危うい感じすら抱いていなかった。
きっと他の災難もこんな風にやって来るのだろうな、などと考えながら過ごした。
床に這っている時にしか気付かなかったであろう事柄もあるし、貴重な体験ではあった。


もう二度と御免だけれど。