あれから何度も備忘録を更新しようとしてはここを訪れ、
キーボードに手を置いて長いこと固まった挙句、何もせずに閉じる、という事を繰り返している。
去年のうちに書き留めておきたい事がいくつもあった筈なのに、
時間が経ち過ぎていて、その時の気持ちを思い起こしてみようとしても歪になってしまって、
もう元のまま書き記す事は出来ない。
まとまらない考えが幾つも浮かんで来ては過ぎ去ってゆくので、
少しでも整理して言葉にしようとすると、もういけない。
一言も言葉が出て来ない。
元々自分の為の備忘録として書き留めているのだから、
忘れてしまわない為の記号として機能しさえすればいいのだ。
そう気付いて、まとまらないままに書き連ねて更新する事にした。
書く事で少しづつ整理されていくこともあるのだから。


暮れに子供たちが風邪を拗らせて長く寝込み、
その看病に追われるうちに僕も妻も同じ風邪に罹って
家族揃って何だかはっきりとしない体調のままクリスマスが過ぎ、
すっかり草臥れてしまって、気が付けば年明けを迎えていた。
そんなだから、うちにも正月があったのだかどうだか、正直なところよく解らないでいる。
ひっそりと篭もり切ったまま、肩を寄せ合って静かにやり過ごした。
去年まではクリスマスだの正月だの、季節折々の行事には
少しは孫にそれらしい事をしてやりたいと言って、母が色々と気を配ってくれた。
そんな事いいよいいよ、と言いながらも、僕たちはその好意に甘えさせて貰った。


今年のクリスマスは皆寝込んでいて何も出来なかったけれど、子供たちには親戚や友人が贈り物をしてくれた。
元旦には妻が、ささやかながら豆を甘く煮て、他にも出来るものを少しだけ、と言って、初めてのお節料理を拵えた。
「季節折々に子供たちに少しでもそれらしい事を」僕も妻もそう思ったのは、
生前母がよくそう言っていたからだろう。


母が亡くなってから、母の声をよく聞く。
勿論耳に聞こえる訳ではないけれど、頭の中で声のすることがある。
「また苛ついた顔してるよ、よくないよ、気をつけなさい」
僕は度々母にそう言われた。
僕はわりとポーカーフェイスに自信があり、他人に気持ちを悟られる事は殆どない。
多少苛々していようが疲れていようが、我慢出来る範囲内なら一人になるまでは顔に出さないよう、細心の注意を払う。
しかし母だけは、どんなに平静を装っていても気付いてしまう。
時々は僕が自覚するよりも早く、それを指摘した。
言われてみて、「そうかな、そんな事ないと思うけどな」
咄嗟にそう答えてから、随分遅れて自分の気持ちに思い当たる。
時々その母の声が、頭の中に小さく囁いて、あ、今自分はどんな顔でいるかな、と考える。


そうやって、今も僕の中に母は生きている。
母が気遣ってくれたことや、その考え方、感じ方が、自分の考えや感じ方とはまた少し異なる立ち位置から、
時々肩を叩いて振り向かせ、耳元で囁いて立ち止まらせ、一人では気付けなかったかも知れない事を教えてくれる。
その事で、人の生や死についての感じ方、考え方が大きく変わった。


母が亡くなってから、僕は一度も涙を流していない。
男が泣いていいのは親の死に目だけ、そう言われて育った。
大っぴらに泣いていい筈のその日、僕はチャックを閉め忘れたまま葬儀場へ向かい、火葬場でその事に気付くと
「こりゃあいい別れの挨拶しちゃったな〜」と甥っ子たちに冗談めかして言い、笑いさえした。
泣けなかった。
目を逸らさず最期を看取り、棺に手を添えたまま家族で唯一人、葬儀屋の車に乗り、
病院から母の自宅へ向かう車の中でも、涙が頬をつたうことはなかった。
何故だろう。
兄たちがそれぞれに目頭を押さえ、小さく肩を震わせているのを見て、(お前は何故泣いてないんだ)と不思議に思った。
自分のことがよく解らなくなった。
これが母から受け取る最後のメッセージになるのだ。
しっかり見届けて心に刻まなければ。
そう思って、そうしたつもりでいる。
それなのに、だ。


よく解らないままに数ヶ月が過ぎ、色々あって疲れ切った頃、初めて例の母の声を聞いた。
ハッとした。
少し疲れていて、苛々していて、それが顔色に出ているかも知れない。
それは傍に居る人たちを辛くさせるかも知れない。
たとえ態度に出さずとも、当たり散らしたりせずとも。
それからは折々、子を厳しく叱る事を窘め、妻に感謝せよと気付かせ、
子らにしてやるべきことを促し、諭し、鼓舞して、我らと共に在らんとす。
そうやって、生者が忘れてしまわない限り、死者は生き続ける。
そう思い至ると、これまで持ってきた死生観とは全く別な側面が見えてくる。
僕にも、僅かながら残していけるものはあるのかも知れない。


薬の手放せない身体になってから、死はより親しい存在となって語りかけてくる。
そのこと自体には、不思議と畏れはない。
しかしそれが家族にどう影響するかということは、不安を掻き立てる。
子らはまだ小さくて言葉で伝えることは難しいけれど、もし仮に今何か起きたとしても、
妻は僕がどう考えどう感じる人間だったか、子らに伝えてくれるだろう。
彼女なりの言葉、感じ方で。
それで満足だ。
この備忘録も、続けてさえいれば、いつか子供たちが僕を知る為の記号としてなら機能する日が来るかも知れない。
だから続ける価値は、きっとある。


あの日泣けなかったのは、僕が母の死をしっかりと受け止められていなかったからだろう。
目を逸らすまいとするあまり、本当に見据えるべきものを見失った。
今も、本当の意味で理解出来たとは思えない。
そとに流せなかった涙はうちに流れるというけれど、それを思い知るような気持ちでいる。
もっと自分の気持ちが片付いて、腑に落ちる日が来れば、或いは素直に泣けるのかも知れない。
そうしたらまた何か今とは違った場所に気持ちを落ち着けられて、
今のよく解らない、落ち着かないふらふらとした心持ちも、
片付くべき場所に収まるのかも知れない。


母が亡くなるとすぐに下の子はハイハイを始め、驚くような早さでつかまり立ちをし、
伝い歩きをし、最近では一人で立ち上がりさえする。
上の子は初七日を迎える前にはっきりと「おばあちゃんちいくー!」と言えるようになった。
あとほんの少しだけでも居てくれたら、と思わない日はない。
子らが話すのを聞いて欲しかった。立つのを見て欲しかった。
もう一度皆で食事がしたかった。
そこにはどんなにか楽しい、安らいだ時間があったろう。
それを思う度、今を愉しまねば、と。
誰もが明日を迎えられるわけではない。
見逃さず、僅かな出来事を感じ、歓びたい。
何もないことを喜び、日々を惜しんで暮らしたい。