静かなる隣人
ちょっと耳にした話から、ずっと以前、学生時代に下宿していた頃の話を幾つか思い出したので、ここに書き記す。
もしかしたら前にも触れた事があったかも知れないが、よく思い出せない。
学生時代に暮らした部屋は、兎に角家賃が安いという事を優先して選ぶ必用があった為、最初に入居したのは日の全く当たらない四畳半一間、すぐ側を昼も夜も大型車両が黒煙を巻き上げて激しく行き来する悪名高い幹線道路が通っており、隣の建物には「◯◯組」と書かれた看板を掲げた、脱いでも全身カラフルな威勢のいいお兄さん方が常に出入りしているという賑やかな環境で、僕は初めての自由な一人暮らしを謳歌し過ぎた挙句、酷く身体を壊し、二年足らずで引っ越しを余儀なくされた。
今度は安いことに付け加え、日当たりだけは良い物件を選んだので、最初の住まいよりは幾分人間らしい気分で過ごす事が出来た。
何しろ昼も夜も薄暗いじめじめした部屋で暮らしているうちに、段々と「変身」のグレゴール・ザムザの気持ちが解り始めていたのだから、越さずにあのままでいたら今頃どうなっていた事か、と考える。
この部屋はしかし、大袈裟でなく壁は薄いベニヤ板くらいの厚みしかなく、細い柱の両脇に隣の部屋の灯りが差し込む程の隙間があり、まるで衝立で仕切って見ず知らずの隣人と同居している、くらいのプライバシーしかなかった。
誰と何を話しているか、スナック菓子をつまんでいるのか鮭弁を食っているのか、音からも匂いからもすぐに知れるという具合なのだ。
どんなに気を遣ってそっと歩いても、床の軋む音、トイレのドアの蝶番が不気味に鳴る音、冷蔵庫のドアの開け閉め、全ての生活音が筒抜けだった。
そんな塩梅だというのに、僕がベッドを寄せている壁側の隣人の部屋からは、殆ど音がしなかった。
いつもドアの蝶番の鳴る音や、水の流れる音がして初めて隣人が部屋に居るという事が判るのだが、普通に歩けば建物全体が軋んで揺れるあの安アパートで、どんな修行を積めばあんな風に気配を消せるのか、僕には想像もつかない。
静かなる隣人は大抵部屋に居て、時折電話の鳴る音がして応対している様子はあったものの、誰かを連れて来る事は殆どなかったし、廊下で出会っても絶対に目を合わせない、表情の乏しい、その人の周りだけいつも薄暗く日が陰っているような雰囲気の青年だった。
酷く蒸し暑い夏の夜の事、濡らしたタオルを胸の上に置き、時折滴る汗を拭いながらパンツ一丁でだらしなくベッドの上に寝転がり、そよとも吹かぬ風に苛立ちつつも、窓を開け放して何とか眠りにつこうと足掻いていた。
今にも眠りに落ちていく間際、何か強烈に奇妙な感じがして、微かに揺れるカーテンの陰、暗い窓の外に目をやった。
これまで味わったことのない奇妙な感覚に襲われて暗闇から少しも目を逸らせられずにいると、寝ぼけ眼で霞んでいた視界が段々とはっきりしてきて、窓の外に青褪めた顔が浮かんでいるのが判った。
仮面のように全く表情のない、血の気の引いた異様な顔だった。
その顔ははっきりと視線をこちらに向けたまま、ゆっくりとカーテンの陰から現れ、左から右へと移動し始めた。
隣の青年が窓の外に立って居る。
殆ど足場のない二階の窓の外に出て何をしていたのか、いったいいつからそこに立っていたのか、解らない。
彼は今にも外れて落下してしまいそうな細い雨樋の上を、躙るように少しづつ移動して、左から右へと窓の外に消えて行った。
その間数十秒だったか、数分だったか、とても長く感じたけれど、僕は驚きのあまり声も出せず、おそらくは彼と同じく血の気の引いた無表情な顔で瞬きもせず、視界の外へ消えて行く彼を見送った。
それからゆっくりと立ち上がって服を着、窓の鍵を掛けた。
それから暫くして、隣室は空き部屋になった。
彼があの晩、どうして裸足で窓の外に出たのか、不安定な雨樋の上に立って、どれくらいの間暗闇から半裸の僕を見下ろしていたのか、それを知る事は出来ないが、あの時の彼の顔は今もはっきりと思い出せる。
何か言いたげな、口を開かず声を立てずに叫んでいるような虚ろな目を、あの青褪めた亡霊のような顔を。
彼もまた、グレゴール・ザムザの様に、孤独に蝕まれて「蟲」になりかけていたのかも知れない。
とうとう蟲になって、酷く蒸し暑かったあの日、つい窓の外に出てしまったのだとしたら、あの晩の事も腑に落ちるのだ。