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三月十日、次男が生まれた。
僕は家に長男と居て、立ち会わなかった。
傍で見守るのもけして落ち着いた心持ちではいられなかったが、
離れて待つのはもっと落ち着かない。
次の日を待って長男を保育園へ預け、妻と次男に会いにゆく。
小さな手、まだ瞼に腫れの残る、糸のように細い目。
長男と似てはいても、はっきりと違う空気を纏った面差し。
皺だらけの細い指で、僕の指をしっかりと掴む。
顔を近付けると、クッキーのような、甘い焼き菓子の匂いがした。
その匂いをたっぷりと吸い込んで、やっと少しだけほっとする。
無事に生まれたんだ、と思う。


誕生を心待ちにしていた母は病を得て、今は病院のベッドに居る。
何とか今一度病室を出て、この小さな新しい家族に会いたいと願っている。
面会の叶わぬ無菌室のカーテンの向こう側に居ても、
まだ僕の妻や子のことばかり気に掛けている。
体調を訊ねてみても、妻を労れ、子を守れというだけのメールが届く。
「おひちやには、お赤飯が届きますよ 楽しみに」
たったそれだけのメールが届く。


一人でタクシーを呼んで、一人で陣痛に耐え、
「元気に生まれたよ」とメールを寄越した妻。
病に倒れ、息をするのもやっとな癖に泣き言を言うでもなく、
祝の赤飯を注文したという母。
何処からそうした強さが来るのか、と思う。


他に何一つ誇れるものを持っていないのだとしても、
あなたの息子として生まれたことだけは、僕の誇りです。


ずっと決められなかった息子の名は、
あなたの名から一字貰い受けました。
きっと強い子になるでしょう。
あなたに似るかも知れません。


たとえ長くはなくとも、あなたにもう一度穏やかな、満ち足りた時間が訪れますように。
これまで願ったどんなことよりも強く、真摯に願っています。