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チィ チィ


初めての子は予定日よりも遅れることが多いと聞いていた。
前兆も全くなく、もっと歩いたりした方がいいのかも知れないと、
出産予定日だった二日にも散歩に出掛けた。
少し腰が重い気がするというので夕方頃には引き上げて来たのだけれど、
食事の支度をして食べ始めた途端に、お腹が痛いと言い出した。
本陣痛なら食事どころではないだろうからまだ違うよね?
などと話しているうちに痛みの間隔が短くなり、慌ててタクシーを呼び、病院へ向かった。
午前一時前に病院へ着いて、四時前にはもう生まれていたので、
異例のスピード出産だと言われた。
初産で予定日ぴったりに生まれて来るのもとても珍しいことらしい。
前駆陣痛に苦しむこともなく、また悪阻も殆どなかった。
生まれる前から親孝行な子だと思う。


病院へ向かう前に血圧降下剤とベータブロッカーをいつもよりほんの少し多めに飲み、
予め心拍を充分に下げておいた。
今の体調では、そうしなければ冷静に立ち会えないと思った。
僕の指を折らんばかりに強く握り締め、痛みに泣き叫びながら耐え続けるのを、
為す術もなく見下ろしているしかない。
出血量が多く、ショック状態から来る震えなのか、
強い痛みに耐え続けた為の反応なのか、
縫合を受ける間も妻の両脚の震えは治まらず、顔色は紙のように真っ白だった。
真っ白な顔をしたまま、隣りに寝かされた子を穏やかな目で見つめている。
いつか話してやれる機会があれば、この日のことを聞かせてやりたい。
どんな風に生まれて来たか、母親がどんなに強い苦しみに耐えたか、
そしてその痛みをすぐに忘れてしまうくらい、
お前の顔を見られた事がどんなに嬉しかったか。
その一部始終を見て、伝えることが僕の役割なのだ、と
真っ白な顔でこの上なく穏やかな表情をした妻を見て、この時初めて理解した。
その時まで、何も出来もしないのに側に居るのが本当に意味のある事なのかどうか、
役に立たないばかりか邪魔にさえなるのではないか、などと考えていた。


顔を見れば何か浮かんで来るかと思っていたが、やっぱり名前が決められない。
考えていたよりもずっと穏やかな優しい顔立ちで、僕よりも妻の方に似ていると思う。
赤ん坊はもっとくしゃくしゃしたお猿さんみたいな顔で生まれて来るものだと思っていた。
耳の形だけは自分にそっくりなのが嬉しい。
外耳よりも内耳の方が発達して高く、妙な形だけれど。
取り上げられてすぐに目を開け、眩しそうな顔で辺りを見回しているようだった。
新生児には殆ど視力が備わっていないというのが信じられないくらい、
はっきりと何かを見ているように感じた。



何もかもが、考えていたのとまるで違う。
何も理解出来ていなかったし、解っていなかった。
何よりも、自分の気持ちが一変してしまったように感じる。
どんな風に接することが出来るか、どう感じるのか、
来る日も来る日も今まで何度も考えて来たけれど、
腕に抱いた瞬間にその全てが消し飛んでしまった。
言葉にはならないけれど、考えてどうこう出来る範囲を超えている。
「考えるな、感じろ。」という何処かで聞いた台詞が頭を過ぎる。
頭で考えると心配や不安は尽きないけれど、
腕に抱いている間は自分が自分でなくなったようにそうしたものからは遠離って、
もっと別な何かに突き動かされているような不思議な感覚を憶えた。


端的に言えば、可愛い。
物凄く可愛くて愛しい。
ほにゃーと泣いたかと思えば目を開けて思慮深げな顔をしてみたり、
天使の微笑と言われる新生児特有の笑顔を見せたり、
何をしていても一挙手一投足全てが面白くて、目が離せない。
新生児は何だか猫に似ている。
この上なく自由で屈託なく、そしてミステリアスだ。
謎の生き物だと思う。


新生児と猫が寄り添っている写真など目にすると、
今もチィさんが元気だったらなあと思う。
添い寝してくれたろうか、尻尾であやしてもくれたろうか。
それとも子を枕にして日向ぼっこでもしたろうか。
歳を経てからのチィさんは、何でも受け入れて許してくれる懐の深さが備わっていた。
きっと側に寄り添うようにして見守ってくれただろう。
もしも何処かに天国だとか言われるような、そんな場所があるのなら、
あの子を見守っていて欲しい。
この先もずっとずっと。




君に会えて嬉しい。
いつか僕が居なくなっても、その事を君が忘れませんように。
父と母になりました。