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一年前と同じ、穏やかな陽気。
去年の今日はチィさんの骨壺を抱えたまま、近所の寿司屋で昼食を摂った。
真っ直ぐ家へ向かうのがどうにも寂しく、帰ってしまったら、
食事の支度などする気分にはとてもなれそうもなかった。
隣の椅子にチィさんの骨壺を置いて、
どれにする?とメニューを取り、妻と二人、黙々と食べた。
二人とも自分を保つのに精一杯で、寿司の味など少しも判らなかった。


今年も同じ店で食事をしようか、と話していたところへ、
ニチコさんから昼食のお誘いがあった。
行きたい店があるのでそこで良ければ、と話して、
待ち合わせをして三人で食事をした。
妻の実家で起こった鼠騒動の話をしたら、鼠が大の苦手なニチコさんが、
「鼠」という言葉を聞いただけで椅子から飛び上がって驚いて、
その様子が可笑しくて、口に放り込んだ寿司を危うく撒き散らすところだった。
驚いた本人も可笑しかったらしくて、顔を真っ赤にして笑い転げている。
それを見て妻も、随分と笑った。
一年前には呆然と前を見据えたまま、
何を口に入れているのかも判らなかった寿司が、旨かった。


毎日のようにチィさんのことを想う。
一年経った今も、妻との会話の中にはごく当たり前にチィさんの話が出る。
それは「偲ぶ」というのでも、「追想」というものとも違う。
あまりにも自然で、私たちの暮らしから切り離せない。
それは別な形での「生」だ。
そう思う様になった。


チィさんが居なくなって、否応なく「死」について考えさせられた。
漠然とした概念でしかなかった「死」が、
とうとう私たちからチィさんを奪い去ってしまった。
そう思っていた。
だけど一年が過ぎてなお、チィさんの居場所は少しも変わらずここにあり、
生きていた時と変わらず二人の間に笑いをもたらし、
穏やかな時間を与えてくれている。
「ここに、今も生きている。」と胸を指せば、
それはあまりにも陳腐で安っぽくなってしまうかも知れないけれど、
今までの捻くれた僕なら鼻で笑ってしまいそうな台詞だけれど、
だって本当なんだから仕方がないのだ。




あの時、本当に沢山の人たちがチィさんの名を呼んでくれた。
さようなら、おやすみ、お疲れ様、ありがとう。
様々な言葉で労ってくれた。
嬉しくて、ありがたくて、何度も何度も読み返した。
あの時の僕と同じように、今まさに別れを経験しようとしている人たちに、
いつも、何か声を掛けたい、自分がそうしてもらったように励ましたい
と思いながら、どう声を掛けてよいのか、何を言ったらいいのか、
考えあぐねてしまって言葉に詰まる。
この一年掛けて辿り着いた想いを、どう伝えたらいいのか解らない。
もう触れられないのに違いはないし、
それが寂しくないと言ったら嘘になるけれど、
それだけじゃないよ、きっと色々な形で、縁は続いてゆくよ、
そう巧く伝えられたら、少しは慰めになるだろうか。
いや、やっぱり言葉だけでは充分ではないのかな。
時間を掛けて、だって本当なんだもん、と言えるその日まで、
何の意味も為さないかも知れないけれど、
僕もまだよく理解出来てはいないけれど、
多分、「死」は全てを奪い去ったりはしない。
きっと、残るものはある筈だから、
だから。








あの時チィさんの名を呼んでくれた全ての人に、
心から ありがとう。