旅の事で書き留めておきたい話が沢山あるのに、
どうも体調が優れず、日が経ってしまった。


空港からバスに乗る際、小銭がなくてまごまごしていたら、
苛立たしげに「もういいからさっさと乗れ」と言われた事。
バスの運転手は少々邪険な態度だったが、
「金がないならさっさと降りろ」とは言わなかった。
日本だったらまず起こり得ない出来事だろうが、
何故だかそれにあまり違和感を覚えなかった。
言われたままに乗り込み、勘を頼りに人通りのありそうな駅で降り、
地下鉄の乗り口を探す。
寂しい駅だった。
ホームからは、落書きだらけの廃墟の様な建物ばかりが目立って見えた。
出発の時間が早かった為に前夜一睡もしておらず、
飛行機の中でも殆ど睡眠をとらなかったから、
腰を下ろすと途端に眠くなる。
地下鉄の中で二人で眠り込んでしまえば、
当然ながらホテルへは辿り着けない。
すぐに気にはならなくなったが、大きな荷物を抱えている所為か、
通りでも改札でも、物珍しげな視線を随分と感じた。
何とかホテルに辿り着いて荷物を解き、
その日はホテルの周辺を散歩して早々に部屋に戻り、早くに休んだ。


二日目は朝からマンハッタンへ向かい、
メトロポリタン美術館を観て廻った。
情けない話だが、このところ本当に体力に自信がない。
着いたばかりだというのに、もう疲れが出始めている。
少し道に迷ってセントラルパークの中を歩いているうちに
くらくらと目眩がしだした。


チィさんが居なくなってから早いもので、もう少しで四ヶ月になる。
その間、泣き暮らしているという訳ではなかったが、
寂しさは拭い去れず、どことなく気持ちが冴えないでいるのは確かで、
気怠い様な、気がつくとぼんやりしてしまっている事が多く、
また風邪ばかりひいて、長い間臥せったりする事も増えていた。
よく食べ、よく笑っているつもりでいても、
免疫力や抵抗力が弱まっているのを感じ、我ながらそれを滑稽に思う。
冗談みたいな話だけれど、髪に白いものも目立つ様になってきた。
長い間気が張り詰めていた所為で疲れが出たのだろうと軽く考えていたが、
流石に笑い飛ばすのにも少し無理が出て来た。
妻からの急な旅の誘いに乗ったのも、
そういう流れを何とかしてここらで少し変えたい、
と思っていたからかも知れない。
チィさんが居た頃には、長旅等考えもしなかった。


旅に出て良かった、と思う事に沢山出会った。
かつては殺伐とした印象しか持てなかったブルックリンは、
今では「美しい老猫と天使の住まう街」に変わったし、
また訪れたい、と思う。


それからニュージャージーで暮らす大学時代の同級生宅を初めて訪ねた事。
それまで写真でしか見たことのなかった友人の愛猫は
まだ若々しく、好奇心旺盛で生命力に溢れており、人懐こかった。
以前には三匹の猫がそこに暮らしており、
友人が指し示した家具のところどころに、その痕跡が残されていた。
角の円くなった木製の椅子やテーブル、
三匹が並んで、或いは順番に寛いだであろうソファー。
そのどれもが暖かく、愛おしい。
友人の御主人が手の込んだ料理でもてなしてくれた。
穏やかで口数の少ない柔和な風景画家は、素晴らしい調理人でもあった。
何時間も掛けてオーブンでローストされた柔らかな肉料理や
素晴らしいマッシュルームソースは、
どれも一流のレストランで饗されるものに、少しも引けを取らない。
口にすると瞬時に、長い時間を掛けて支度をしてくれた事が
手に取る様に解った。
今日だけが特別、という訳じゃない、彼は料理が好きだから、
と友人は言ったけど、だとしたら本当に素晴らしい御主人だ。
友人の焼いたパイも、アイスを乗せて食べるそのやり方も、
どれもこれも素晴らしかった。


ボニーさんの家でディジーさんに触れ、チィさんを想う。
友人の家でヘルガイと会い、会うことの叶わなかった二匹の猫たちを想った。
メトロポリタン・ミュージアムのエジプトエリアで
猫の彫像を観た時も、チィさんに出会えた気がした。
守護する者、の名を持つ凛とした立ち姿のその雌猫は、
かつてバステトと呼ばれ、神の化身として崇められた。
前脚を綺麗に揃えた姿で腰を下ろし、
背中を伸ばして真っ直ぐ前を見詰めている。
チィさんもよくそうやってこちらを見ていた。
時が止まったかの様に少しも揺らがない視線に、
たじろいでしまう事も屡々だったが、
その姿はいつ見ても完璧なまでに美しく、神々しかった。


メトロポリタンの展示室で、見慣れたその姿を目にした時の
気持ちの浮き立つ様な感覚を、どう表せばいいのか解らない。
遠く離れた地で、またこうして出会えるという喜びに気付けた事が、
これからどれだけの支えになるか知れない。


帰国してから頂いたボニーさんのメールに、

ルルの周りには最近お星様になってしまった猫が多く、
説明する時に「目をつぶれば会えるよ」と説明していたら、
ルルは目をつぶるといっぱいの猫にあえるようになって、
その中には、いつも素敵なチィさんがいるの。

とあった。
ああ、そうだった。
その姿を想う時、何時いかなる時も、
チィさんは僕たちの傍に居て、これまでと少しも変わらず
ゆったりと寛いで退屈そうに尻尾を揺らしながら、
時々眩しげに目を細めてこちらを見詰めている。
目に焼き付いて忘れる事のないその姿は
けして失われず、想いを巡らしさえすれば何時でも
手を触れた時の柔らかさも、喉を鳴らすその響きも
その身体の温かさも、以前と少しも変わらずに感じられる。


友人とその猫が、メトロポリタンのバステト神が、
そしてディジー、ルルちゃんとボニーさんが、
僕にその事を教えてくれた。


チィさんが居なくなって初めて迎えるお盆だ。
これまでよりも強く、はっきりと
いつも日向ぼっこをした窓辺に、布団の足許に、
食卓のいつもの席に、チィさんの姿を見る。