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もっとずっと以前から、まだチィさんが元気で、
家の中を駆け回って僕を追いかけっこに誘ったり
満ち足りた表情で日向ぼっこをしている時分から、
何度も繰り返し悪夢に見て魘されたり、
時々は自分でも滑稽になるくらい畏れていた事が、
いざ現実に起こってみると、不思議なくらい平静を装う事が出来て、
獣医師からの電話で知らせを受けた時にも、
「そうですか。色々とお世話になりました。
午前中に迎えに行ってやってもいいでしょうか」
などとすぐに聞き返している。
車を手配して、精算しなければならない治療費を
まだ訊ねていなかった事を思い出し、
折り返し電話をして確認した。


病院に着いてチィさんの亡骸に触れた時にも、
静かに撫でてやりながらスタッフの方に挨拶したり、
「九月から本当に長い間お世話になりまして…
楽をさせて頂いてどうもありがとう御座いました」などと礼を述べた。


取り乱して、声にならない叫びを上げながら
目も口も真っ黒な洞の様にして立ち尽くしている自分は、
今は何処か遠くに居て、それはそいつに全て押しつけてしまって、
今ここに居る自分はすました顔で泣いている妻の背中をさすったり、
必要な物を整えたりしている。
何度かは笑顔を作ることさえした。


骨壺を抱いて、「寿司でも食べてから帰ろう」
そう言った自分の声を、まるで他人の声の様に聞いた。


色々な事がごちゃ混ぜになって繰り返し繰り返し再生される。
息が上がって苦しげに舌を出し、為すがままに身を横たえて、
それでも静かな目でじっと僕を見ていたチィさん。
その顔を見ながら、最後に病院へ連れて行く決断をした日の事。
信頼を裏切る事になりはしないか、
苦しみを長引かせる結果になりはしないかと恐れながら、
それでも何もせず腕の中で看取ってやる事は、僕には出来なかった。


後悔をしている訳ではない。
唯々、あの時のチィさんの顔が焼き付いている。
病院の酸素室の中で、身体をさすってやると
喉を鳴らそうとしたのか鳴こうとしたのか、
チィさんはそれまで聞いたことのない音を出した。
そうして真っ黒に開いた瞳孔で、何度も僕の顔を見詰めた。


毎日、毎日、真っ黒な瞳が何と言っているのかだけを考えた。
いつもその事が頭を離れない。
非難めいたものでもなく、何かを訴えるでもなく、
チィさんは唯々静かに、されるがままに身を任せた。
そうして静かに、じっと僕を見ている。


骨に触れたのに、頭ではしっかりと判っている筈なのに、
一人きりの家の中で「チィさん」と声に出して呼べば、
いつも通り眠たそうな顔をして、或いは目も上げず、
尻尾を軽く一振りして返事をしてみせる、
そんなチィさんの姿が、襖の向こうに見える。


あの時、一瞬にして全てを背負わされ
何処かへ追い遣られたもう一人の自分は、
今も声にならない叫びを上げながら暗闇を彷徨っていて、
僕はいつかそいつが、押しつけられた荷物を恨めしげに掲げて
背負わされたものを突き返しにやって来るのではないかと怯えている。