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8日。
レントゲン写真の肺に見える影が、
もしも急速に進行しつつある腫瘍だった場合、
容態が急変して窒息することもあると言われた。
軽度の炎症であることを願って抗生剤の注射をしてもらう。
病院から帰宅した時にはキャリーバッグから自力で出て来る事さえ出来なくて、
お腹の下に手を添えてバッグから出し、布団の上に移動させた。
手脚に全く力がない。ぬるりと滑り落ちるみたいな感覚。
肩で大きく息をして、その度に苦しげに頭が揺れる。
半開きにした口から乾いた舌先が力無く垂れている。
どうしていいのか解らない。
涙も出て来なかった。


朝までそんな調子が続き、何度かスポイトで水を飲ませながら
色々なことがとりとめもなく頭を駆け巡る。


9日朝。
苦しげな息のまま眠っている。
夜の間は殆ど眠れない様子だったから、
病院へ連れて行く為に起こすのを躊躇う。
脱水症状が起こるのを何とか防ぎたくて
何度かスポイトを使い口許に水を運んだが、顔を背けて嫌がる。
無理強いすると呼吸が激しくなるので、
もうそれ以上はどうする事も出来なかった。
もう駄目なのかと思う。
もしそうならどれくらい苦しめばいいのだろう。
このまま何時間も苦しむのだろうか。
どうすれば少しでも楽にしてやれるのだろう。
暗澹たる気持ちで、しかしいつも通りに声を掛け、背中をそっと撫でる。


午後になって、急によろよろと立ち上がり、側に置いた水皿の方へ。
ぴちゃぴちゃと音を立てて水を飲み始めた。
後ろ脚の付け根の筋肉がこの数日ですっかり衰え、
身体を支えるのがやっとで小刻みに震えている。
ぴちゃぴちゃと水を舐めているのを見ているうちに、
涙が溢れて止まらなくなった。


弱って苦しげだった時には泣くことさえ忘れていた。
チィさんは水を飲み続けている。
気を逸らして飲むのを止めてしまわない様に
身動きせず、息を殺して泣いた。
それからチィさんは隣の皿に盛ったウェットフードに口をつけた。
もうどうにも我慢することが出来なくなって、
隣の部屋へ移ってわんわん泣き、そしてげらげら笑った。
水を飲んだ!食べ物にまで口をつけた!
ついさっきまで危篤と言ってもいい様子だったのに!
自分の漏らす嗚咽が可笑しくて笑い、
気が狂ったみたいに足を踏みならして鼻をかんだ。
勢いよくかみ過ぎて耳が変になる。
午後になって病院が開くのを待っている間に、
激しかった呼吸は徐々に和らいで行った。


好転は一時的なものかも知れない。
すぐにまたあの苦しげな息遣いに戻ってしまうのかも知れない。
しかしそれが何だ!と思う。
今、しっかりとした息遣いで水を飲み、
背中を撫でればそれに喉を鳴らして応えてくれる。
生きている!
充分だ。
またこうして穏やかに過ごせる時間を与えられたのだ。
たとえそれがどんなに僅かなものだとしても、
心から感謝し、この幸運を貪欲に貪り付くそう。


チィさんはその日の夜もガブガブ水を飲み続け、
医者には止められてる療法食ではないウェットフードを食べて、
窶れて干物みたいになっていた顔は朝になったらすっかり元通りになった。
まるで乾いたスポンジが水を吸って膨らむみたいに。
計量後のボクサーが初めて食事をした後みたいに。
いつも通り日の当たる布団の上に、
いつも通りのふてぶてしさを取り戻してそこに居た。




なんて酷い猫なんだお前は。
水を飲んだくらいでこんなに泣かせるなんて。
日を浴びてそこに居るだけでこんなに笑わせるなんて。


お前ほど酷い猫を、他に知らない。