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毎日通院して目の周りに溜まった血膿を抜いてもらう。
処置に使う注射針が太くて痛そうだが、
チィさんは声を上げたりしない。
三日と四日は、正月休みだった妻が病院へ行ってくれた。
猫嫌いを公言して憚らない兄が、連日の様に車で送り迎えしてくれている。
色々なところで沢山の励ましを頂いた。
沢山の手に支えられている。


二日は病院から帰宅してキャリーバッグを開けたら、
チィさんはもう普通に歩行する事も困難になっていて、
壊れたゼンマイ仕掛けのおもちゃみたいにぎくしゃくと脚をばたつかせ、
前にのめるみたいに、今にも倒れてしまいそうにふらふらとしか進めなかった。
それから少しだけ血の混じった吐瀉物を吐いた。


妻が泣き出す。
一緒になって泣き出さない様にしなければならない。
そうしてしまえば、もうこれで終わりだと認めてしまう様な気がして、
口では「随分頑張ってくれたのだから、あまり悲しんではいけない」と妻に、
そして何よりも自分自身に言い聞かせながら、
心の底では、まだ何とか出来はしないかと考えている。


しかし苦しみを長引かせる事だけはどうあってもしてはならない。
それは絶対に許されない事だ。
それは僕を信頼してずっと身を任せてくれているチィさんへの
酷い裏切行為に思えてならない。
落ち着くように灯りを落として室温を高くした部屋から、
隣りの居間に居る僕や妻の方を、
チィさんは時折身体を起こしてじっと見詰めている。
声を掛けても身動ぎもせず、唯々、見詰めている。
その真っ黒な瞳の奥を覗き込む度に、
(大丈夫。その時が来たらきっと望む通りにするから。
絶対に裏切ったりしないから、)と心に誓う。
それはもうこれまで何度も交わして来た古い盟約だ。
それがあるからこそ、色々な処置を甘んじて受け入れてくれている様に思う。
人の為すことなど、拒絶するのは容易い。
猫にとっては。ましてやあのチィさんなら。


投薬、通院、強制給餌。
頑として受け入れないと決めてしまえば、
チィさんなら容易くそう出来るだろう。
チィさんはうんざりしながらも、まだまだ僕たちに付き合ってくれている。
だからまだ大丈夫。終わりじゃない。
諦めない。放棄しない。
そして、絶対に裏切らない。
どうしたいか、ではなく、どうすべきか、を常に読み取る。
その覚悟を怠らない。


もういつどんな事が起こってもおかしくはない。
残された時間は長くはないだろう。
それでもまだ、穏やかな時を与えてくれる。
今日はのんびりとした顔で日を浴びて、それから大きな欠伸をした。
喉を鳴らした。
小さなくしゃみをした。
僕の膝に額を擦りつけて声を出さずに鳴いた。
たったそれだけの事が、この上なく僕の心を暖め、揺さぶる。
今この掌にある温もりや柔らかさこそが全てだと思える。
たとえ明日どんな事が起ころうと、もう怖れたりしない。