母から父方の祖父の話を聞いた。
祖父は僕がまだ小さな頃に亡くなったので、
祖父についての僕の記憶は本当に僅かなもので、
亡くなる前、病に伏した床の中で僕に唄をせがんだ事。
祖父の枕元で僕が唄うと、いつも涙を流した事。
一生懸命手を打ってくれた事。
今となってはそれくらいしか思い出せない。
どんな人だったのか、その人となりや生業を聞いたのは成人してからで、
それもあまり詳しい話ではなかった。


祖父は若い頃にアメリカに渡り、真珠の養殖関係の仕事をしながら
現地で言葉を覚え、同じく渡米して働く日系人達の通訳や荷物の配送、
受け渡しの手伝い等をして暮らしていた。
しかし病を患い、少しでも本土に近い場所で死にたいと願って
何とかオーストラリアまで流れ着いた事、
そこで病状の回復を何年も待たねばならなかった事等を知る。
何とか持ち直して帰国すると、
士族の出であった曾祖父の家はすでに零落しており、
土地、田畑や着物、鍔箪笥に納められた鍔や刀に至るまで
全てを売り払って暮らしており、何も残っていなかった。
同じ様な道を辿って没落して行った士族達は多かったと聞く。


士族と言われても少しもピンと来ない。
侍だった為に手に職を持たず、
時代の移り変わりについて行けずに暮らしに困窮した話を聞かされても、
それは遠い遠い世界の出来事である様に感じられるのに、
実際には曾祖父の代まで遡ればもうそんな時代になるのらしい。
聞いていて不思議な気持ちになる。


捕鯨で有名な、漁業の盛んな故郷に戻った祖父は、
しかしもう海へ出る事はなく、畳屋を始めた。
畳はどの家にも必要だから、食いっぱぐれがないというのだ。
日本茶よりも渡米生活で覚えたココアや珈琲を好み、
自己流でバイオリンを奏で、
いつも身なりに気を遣う洒落者であったという。


田舎の海辺で、祖父と二人で花火をした記憶がある。
祖父は白っぽい着物を着ていた。
二人で何を話して笑い合ったのか、思い出せない。
その記憶は、もしかすると祖父が亡くなる前に
僕が見たという夢だったかも知れない。
夜中に起こされて身支度をさせられ、急いで家を出る時、
まだ祖父の急変を知らされる前に、僕は母に祖父の話しをしたそうだ。
その辺りの記憶が曖昧で、夢だったのか、現実だったのか
判然としない。


祖父が亡くなって、何時の間にか僕は人前で唄う事をしなくなり、
祖父が喜んだという唄を忘れた。
鼻歌でさえ、もうずっと長いこと歌っていない。
最後に墓参したのも、どれくらい前の事なのか思い出せない。
祖父や祖母の事を、僕は殆ど何も知らなかった。


母方の祖父は僕がまだ赤ん坊の頃に亡くなったので、
僕の記憶には残っておらず、
生まれて間もない僕を抱いて笑う祖父の写真と、
母から僅かに聞いた話だけが
僕の母方の祖父についての全てだ。


話してくれる人がいるうちに、もう少し話を聞いておきたい。
最近、そんな風に思う様になった。