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マンションの廊下で管理人の奥さんに出会った。
猫を散歩させていた様だ。
この廊下でなら自由に歩かせても
猫がエレベーターにでも乗らない限り
外に出してしまう危険もないし、
少し探検させるのには丁度良い。
濃い灰色をした、毛足が長くて美しい猫だった。
うちの玄関の前に立っていたから、
もしかしたらドア越しにチィさんの声が聞こえたか
匂いでもしたのかも知れない。
抱き上げて足早に去ろうとする小さな背中に
「綺麗な猫ですね」と声を掛けた。
うちにもおばあちゃんの猫が居るんですよ、と。
すっかり暗くなった廊下で、随分長い間猫の話をした。
生まれたばかりで駐車場に捨てられていたのを拾ったのだという事。
そろそろ一歳になる事。
きっと年老いた自分たちが先に逝く事になるだろうから…、という話。
他にも何度か猫を拾った事。
医者にも診せたが救うことは出来なかったという事。
御主人は一階にある管理人室に寝泊まりしなければならないから、
夜はマンション内の自宅で猫たちと一緒に眠るのだという事。


立ち話をする間、猫はおばあさんに大人しく抱かれていたが、
時折「下ろしてもっと自由に歩かせてよ」とでも言う様に
小さく控えめな唸り声を上げた。
廊下の角を曲がったところからもう一匹、
これも毛並みの良いペルシャ猫が現れて、こちらの様子を窺っている。
おばあさんは背中を向けていてそれに気付かない。
「もう一匹、年取ったペルシャ猫がいるのよ」と笑った。


時折苦しげな咳をする。
皺くちゃの小さな手を何度も口許にやる。
喘息患者特有のゼイゼイした息遣い。
深い笑い皺の刻まれた目許。
猫の話をしている時にだけちらちらと目を合わせる。
とても内気で物静かな人なのだろう。

おばあさんと猫たちの暮らしを想う。
両手に提げた荷物は軽くはなかったが、
薄暗い廊下から、僕はいつまでも立ち去りがたかった。


玄関の鍵を開けると、チィさんが不安げな顔をして立っていた。
別な猫の唸り声を聞いたからだろうか。
「廊下に猫がいたよ」と声を掛ける。
居間に戻ってごろんとお腹を見せたチィさんを撫ぜながら、
「あたしたちの方が先に逝くから、いっぱい美味しいもの食べさせて
この子たちも連れて行ってあげなくちゃ。」というおばあさんの言葉を、
繰り返し繰り返し思い出す。
何を身勝手な、と腹立たしく思う人も居るだろう。
僕もいつもなら、そう感じるかも知れない。
おばあさんは、そう言いながら
愛しそうに、本当に愛しそうに猫を撫でた。
置いては行けないんだ。


他に身寄りははないのかな。
休日に訪ねてくれる人たちは?
猫たちの話を、いつまでもいつまでも笑って聞いてくれる人は?


灰色の猫の名は、ラッキーというのだと教えてくれた。
名付けたその日、猫に触れた人が宝籤を当てた事も。
おばあさんは嬉しそうに、本当に嬉しそうに話す。


今度会ったら、ペルシャ猫の名前も訊いてみよう。
猫たちの好物は何か、
猫砂はどんなのを使ってるのか、
良い獣医さんを知っているかどうか。
何でもいい。
また話をしてみよう。