読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる


一度だけ、きりんの舌に触った事がある。


僕は小さな頃から、よく一人きりで動物園に通った。
そうして閉園時間の放送が流れる迄、園内をぶらぶらして
檻に入れられた動物や、家族連れや、大勢の人たちを眺めた。


その日は薄曇りで肌寒く、只でさえ来園者は少ない様であったが、
閉園間際になると、日が陰り始めた園内には
色んな動物たちの声が、どこか物憂げに寂しく響くばかりで
殆ど人気はなく、まだ園内の奥の方でぼうっとしていた僕は
急に心許ない様な、落ち着かぬ気持ちになって出口へと歩き始めた。
その途中にきりん舎があった。
いつもなら素通りするその檻の前で、その日はぴたりと足が止まった。
きりん舎の横にはコンクリを打った階段が設えてあり、
その階段を上る途中、丁度きりんの頭の高さになる場所に
金網の破れを見付けたのだ。
そこから手を差し入れてひらひらと振ってみると、
一頭のきりんがそれに気付いてゆっくりとこちらへ向かって来る。
もうすぐ食事の時間が来るのを覚えているのか、
他のきりんたちはさっさと夜を過ごす舎内に戻り始めているのに、
その一頭だけは暗くなり始めた檻の向こうで、
いつまでも所在無さげにうろうろと独りで歩き回っていた。


間近で見るきりんの目は驚く程大きくて、真っ黒な瞳は濡れて光り、
長い睫毛は瞬きの度に音をたてそうな気がした。
喩え様もなく優しくて、それまで見た事もないほどに
哀しい目をしていた。


金網の隙間から精一杯延ばした僕の指先に
きりんの舌がそっと巻き付いた。
リコリスを使った菓子の様な、青黒くて長い舌が
蛇の様ににょろりと出て来て初めは吃驚したけれど、
僕は手を引っ込めなかった。
きりんの舌は柔らかに湿っていて、冷やりとしていた。
鼻先に触れても少しも嫌がらず、じっと僕の目を見ている。
人の何倍も大きな、真っ黒な瞳で。


どれくらいそうして立っていたのか判らない。
只、静かに立って互いを見ていただけだった。
ほんの数分の事だったかも知れない。
それだけだったけれど、とても大切な何かを見付けた気がしたのだ。


職員の乗った清掃車の近付いて来る音がした。
誰にも見られたくなかった。
誰にも知られたくない、と思った。
僕は足早にその場を離れ、出口へと急いだ。


何日かして、もう一度あのきりんに会いたくて
また一人で動物園に行った。
よく晴れて家族連れで賑わう園内には
あの時の様な不思議な静けさはなく、
きりん舎の金網は新しい物に取り替えられていて、
もうあのきりんを見付ける事は出来なかった。




異種間の意思の疎通、というと大袈裟だけれど、
そういうものを感じる瞬間は確かに存在する。
言葉や直接的な手段を介さない会話。
そういう瞬間に立ち会える事は、とても貴重で幸運な事だと思う。
それは人間同士の間においても同じだ。
人同士の間においてさえ、難しい事だと言えるかも知れない。
言語や他の情報に頼りがちな人同士の間には
厳然たる壁が立ちはだかっていて、近い様でいて、時々とても遠くに感じる。


僕が uronelle に度々そうした異種間の意思の疎通と思われる瞬間をreblogするのは、
その時の出来事が忘れられないからなのかも知れない。