墓標

森美術館で観た「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」で
展示作品の中にGrayson Perryという人の作った壺があって、
大きな壺の全面に細かな図案がびっしりと絵付けされているのだけれど、
所々に沢山の小さな棺や墓標が描き込まれているのを見て、
最近よく考えていた事をそのまま絵にして見せ付けられた様で、
少し戸惑う様な妙な心持になった。


僕は普段から何か言いかけても口を噤んでしまう事が本当に多くって、
相手が少し忙しそうに見えたり、気持ちがこちらを向いていないと感じると、
きっと今話しても伝わらないだろう とか、言ってもどうせ無駄だろう とかいう、
拗ねた様な諦めた様な、それは何処かなげやりな子供じみた沈黙で、
黙り込んで静かに笑っているのは、傍からそうは見えなくても、
大人の余裕という様なものからはかけ離れた、自暴自棄な愚行に過ぎない。


頭ではよく解っている筈なのに、この悪癖はなかなかに厄介で、
僕は度々黙り込んで力なく笑っている自分に気付かされる。
その度に、呑み込んだ言葉や伝えられなかった気持ちの小さな墓標が
ぽつんぽつんと自分の中に立って行く様で、
それは数が増えてもけして賑やかにはならず、
隙間風が益々酷く淋しく吹き荒れる様な、荒涼とした墓地となって行く。


一つ一つの事柄は本当に些細で、もしかしたらどうでもいい様な事なのかも知れない。
しかしそれがいくつも積み重なって行くと、耐え難い重さと質量を伴って
僕を押し潰しに掛かってくる。


またいつか、などと自分を誤魔化しはしてみても、
一度呑み込んだ言葉はもう二度と語られる事はなく、伝わる事もけしてない。
いつか なんて時はやって来ない。
もう充分過ぎるほど判っている筈なのに。


関わりを持っていたい相手には、
何かを感じたらその都度きちんと伝えるべきで、
それがいかに大切で重要な事であるか、理解しているつもりでいても、
小さな墓標は今日もまたぽつりぽつりと増え続ける。


言葉にして伝える術に長けていさえすれば、
もう少しスマートに切り抜けられるだろうに。
不器用で不恰好な事この上ない。