日の丸はパンダみたいな白黒の斑猫で、
ちょこんと首を傾げて座る癖があった。
そうやって何かを待つようにドアの前に座り、
外の音に耳を澄ませている。
その小さな後姿を見るのが、僕はとても好きだった。


日の丸と名付けたのは、仔猫特有の丸味を帯びたお腹に
見事にまんまるな、黒い日の丸模様があったからだ。
日の丸はよく僕の枕の上で大の字になって、
お腹の日の丸模様をいっぱいに広げ、大きな寝息を立てながら眠った。


初めて出会った時、日の丸は小さなダンボールの中で震えながら
か細い声を張り上げて鳴き続けていた。
近付いて蓋を開けてみると、
箱の中には信じられないくらいに痩せこけた小さな生き物が居て、
手足を広げてジタバタさせながら、必死に這い回っている。
両目のあるべき場所は目脂に覆われて、ある筈の丸い膨らみはなく、
目脂を拭き取ってみても、そこには只ぽっかりと暗い穴があるだけで、
眼球らしきものは何処にも見当たらなかった。
あんなに痩せて小さく、今にも消えてしまいそうな弱々しい命に触れたのは
それが初めてで、僕はどうしていいのか解らないままに
その場を立ち去る事が出来ず、箱を抱えたまま
当時下宿していた襤褸アパートに連れ帰った。


それまで猫と暮した事もなく、仔猫に何が必要なのか、
どうすれば良いのか、何一つ知らなかった。
もしも当時の自分に会いに行く事が出来るのなら、
必要なものを全て揃えて駆けつけ、小突き回しながら逐一間違いを指摘して、
少しは溜飲を下げる事も出来るのに。
徹底的に罵倒して、間違いを正してやるのに。
何もかもが間違っていて、至らなかった。


それでも日の丸は少しづつ元気になって行く様に見えた。
見る事は出来なかったが、部屋の中を歩き回って、
感触や音で色々な事を知る事が出来たし、
僕が外出から帰って来ると、例のあの仕草で、
ドアの前に陣取って小首を傾げて迎えてくれる。
日の丸が鳴きながら駆け寄って来ると、ぎゅっと胸が締め付けられる。
只嬉しいのとも、愛しいのとも違う。それは初めて感じるものだった。
朝起きると枕の上に粗相があり、炬燵に足を入れればそこにも粗相があり、
四六時中部屋でどうしているかが気になって度々帰らなければならなくても、
何とかこうしてやって行けるのではないかと、そう思っていた。


己の無知や怠慢を思い知らされる日。
取替えし様もない間違い。償う事の叶わない過ち。


別れはある夜突然やって来て、日の丸は日が昇るのを待たずに
僕の手の中で小さな溜息をついて、それ切り静かになった。
暖めた柔らかなタオルに何度包み直しても、どうして場所が解るのか
その度に這い出して来て僕の膝に縋るので、ずっと両手で包み込んで、
息を殺して朝を待つしか、当時の僕には出来なかった。
今なら積み重ねた間違いを一つ一つ正し、どうにかする事が出来たかも知れない。
僕の無知と至らなさの所為で、日の丸は長く生きる事が出来なかった。
長い年月が過ぎ去ってもそれは胸を締め付け、僕を責め続けるが、
今更もうどうする事も出来ない。


これまで誰かに日の丸の話をした事は一度もない。
それは後ろめたくて、恥ずかしくて、触れたくない思い出だった。
同じ様に自分を責め続ける人を知った。
僕の過ちに比べれば、何一つ過失のない、避け様もない事情だったと、そう思う。
あなたは少しも悪くなんかない、と、確信を持ってそう言ってあげられる。
でもその言葉は、きっと何の力も持っていないのだろう。
他人がいくら許してくれたところで、そんなのは何の意味もない。
この先もずっと忘れる事は出来ないし、
何とか折り合いをつけてやって行くしかない事を、
きっと僕も彼女もよく知っている。




今も首を傾げてちょこんと座る小さな後姿が目に浮かぶ。
日の丸はいつもドアの前で僕を待っていてくれた。
ドアを開けると大きな声で鳴いて駆け寄って来てくれた。
それをいつまでも忘れないでいる事しか、僕には出来る事がない。


チィさんが静かに目を閉じて座っている横顔は、少しだけ日の丸を思わせる。
日の丸と暮した短い間の事ほど、繰り返し思い返す事は、他にない。