読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

 千代


その猫は小さな植え込みの影から、のそりと姿を現した。
あまりに唐突で、まるで何もない暗がりから
突然猫が湧いて出た様にも思え、僕はその猫が、
たった今影の中を潜り抜け、別な世界からこちらの世界に
抜け出して来たばかりなのではないか、等と夢想する。


驚いて身動きせずに見ていると、猫は悠然と目の前にやって来て、
目を細めて前脚を伸ばし、尻尾を震わせて大きな欠伸を一つ、した。
それからこちらを振り向いて暫く僕の顔を凝視した後、
さもつまらなそうに、「フン。」と鼻を鳴らして目を逸らした。


猫は僕に背中を向けたまま毛繕いを始めた。
その背中は、まだ仔猫かと思われるほど華奢で小さなものだったが、
毛並みは少々草臥れ、時折ちらちらと不穏な鋭さを覗かせる双眸は
仔猫の無邪気なそれではなく、歳を経た者のみが持つ、
冷厳で近寄り難い光を底の方に湛えている。


まあしかし、見た目はありきたりな柄の、
何処にでも居そうな斑猫に過ぎなかった。





只一つ、他と違っていたのは
どれくらい前に生まれて、どれほど生きたのか、
当の猫にもよく判らない、という事だった。


ずっと昔に、「千代」と呼ばれていたのを憶えている。
しかしそれが何時の時代の事だったか、誰がそう呼んだのだったか、
あまりに長い時が経ち過ぎていて、
靄の向こうに薄ぼんやりとした影が浮かぶばかりで、
もうはっきりと思い出す事は出来なくなっていた。




塒にしている公園から向かいの民家に一瞥をくれると、
門柱の周りをぐるりと取り囲んでいるペットボトルが目に入った。
新しく越して来た奴らは、どうやら猫嫌いらしい。


“貴様らがここへやって来るよりもずっと前から、
その家が建つ前、まだ公園などと呼ばれるものが出来る前から、
私はずっとここに棲み、暮らして来たのだ。
新参者のうぬらの事情など、与り知らぬわ”


「ふん。」と鼻息を吐いて、気を鎮めようと毛繕いを始めた。
あの効きもしない下らぬまじないを目にする度に苦々しい心持ちになる。
人間の考える事はいつも奇妙奇天烈で、理解し難い。
所詮、猫と人とでは相容れぬのだ。
同じ世界に居て、別なものを視ている。
人は猫と暮らすと、飼ってやってでもいるつもりになる様だが、それは違う。
気味の悪い猫撫で声を出して近付いて来る奴らになど、
けして気を許すものか。
さっきから後ろでそわそわとこちらの様子を窺っている男も、
きっとそうした手合いだろう。
さっさと何処かへ失せるがいい、ともう一度その男の方へ目をやると、
男は離れた処にしゃがんで何やらもじもじしている。
「ちょっとだけ、背中に触らせてもらってもいいかな。」
やっと聞き取れるくらいの微かな声で、男はそう言った。


何かを思い出しそうになる。
昼日中からこんな処をうろうろして猫に話し掛けて来る奴など、
ろくなもんじゃない。
そう思いながらも、何故かその男の事が気になった。
ずっと昔にも、こんな風に話し掛けられた事があったのじゃなかったか。
誰かが私の背中に手を置いて、静かな声で、何か言ったのじゃなかったか。
何かを思い出しそうになる。


知らぬ間に男が近付いて来て、私の背中に触れた。
最初は恐る恐る手の甲で、やがて掌をそっと押し当てて来る。
穏やかな日差しで暖められた背中から、別な温もりが伝わって来た。
それは懐かしい、暖かで心地良い重みだった。


遠くで誰かが喉を鳴らしている。


自分の喉から低い振動を感じた時、
私は驚きで思わず声を洩らしそうになった。
人に撫でられて喉を鳴らすなど、まるでそこらの家猫どもの様ではないか。


凍てつく様な冬を、猛り狂った様な夏を、たった独りで遣り過ごして来た。
何度も何度も、遣り過して来たのだ。
誰にも凭れず、誰にも顧みられず。


長い時を経て、自慢だった柔らかな毛皮はばさばさと荒れ果てて艶を失い、
いつしか私は忘れてしまった。
あの人の事を。


暖かな掌を、静かな囁きを思い出しそうになる。
あの人は私に何と言ったのだったか。


ああ、そうだ、
そうだった。
やっと思い出した。




私は満たされた気持ちで静かに目を閉じた。
時が来たのだ。
背中にはまだ懐かしい温もりがあり、
耳元にははっきりと、あの人の声が届いていた。