読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる


壊れていたテレビが奇跡的に息を吹き返した。
数ヶ月振りの事である。
前に点いたのはいつだったのか思い出せない。
これを逃したら、先日の写真展で買って来たDVDを観る機会は
また暫く巡っては来ないだろうと
テレビを何日も消さぬままにして、何度も何度も繰り返し観た。
消してしまえば、もう二度と点く事はないかも知れない。


静かな音楽に耳を傾け、映像に見入っていると、
いつくかの記憶が泡の様に浮かび上がっては
また消えて行く。
その都度書き留めておかないから
他事をするうちにすぐまた忘れてしまうのだが、
鮮明に思い出せた事が一つだけ。


小さな頃、何度か父の郷里である港町に行く機会があった。
嘗て捕鯨が盛んだったその町には、捕鯨の歴史等が学べる博物館があり、
海に面した建物の横には水族館も併設されていた。
父の友人がそこで職員として働いていた事から
まだ幼かった僕は大人たちが用事を済ませる間
その水族館に一人置いて行かれる事が多かった。
水族館で海洋生物の飼育に携わっていた父の友人は、
幼い僕の為に色々な便宜を図ってくれ、
水族館の中を自由に歩き回らせてくれた。大きな水槽の前に立ち、
鮫やエイが頭の上をゆっくりと通り過ぎて行くのを観るのは楽しかったが、
広い水族館の中を一通り観終わってしまうと
辺りが暗くなり始めていた所為もあって、少し寂しくなって来た。
人気のない売店の前のベンチに腰を下ろして、足をぶらぶらさせながら
海に沈んで行こうとする夕焼けを見ていた。
まだ迎えは来ない。


父の友人が近付いて来て、面白いものを見せてやろう、と手招きした。
日本ではまだ誰も見た事のないものだ、西洋ではその昔、
船乗りたちが人魚と見間違えたと言われる生き物だ。
そう言って僕の手を握った。
人魚?この水族館には、髪の長い、
あの美しい物語に出て来る人魚が居るのか!これは凄い!
そう思った。
さっきまで心細い思いをしていた事も忘れて、
職員しか出入りしないゲートを意気揚揚と潜り、
水族館の奥へと入って行った。


そこにはコンクリートで出来た小さな四角い部屋があった。
潮風ですっかり錆びてペンキの剥げかかった鉄製の大きな扉。
そこを開けてもらって中に入ると、
大きな水槽の周りをコンクリートの壁で囲んだだけの、
実に簡単な構造になっているのが解った。
「この水槽の中に人魚が居るんだ。
 まだ公開してないけど特別だからな。内緒だよ」
父の友人は少し得意げにそう言うと「じゃあ、後で迎えに来てやるから」と
重そうな鉄の扉をゆっくりと閉めて出て行った。
途端に部屋の中は真っ暗になった。
明かりは水槽の上からちらちらと射し込んで来る夕陽だけ。
水槽には一面びっしりと藻が生えていて、水は濁っていた。
顔を近付けてみても何も見えない。
こんな汚い水槽の中に人魚が居るんだろうか。
僕は水槽に張り付く様にして、中を覗き込んだ。


急に目の前が暗くなった。
突然日が沈んで夜が来た様だった。
真っ黒な影が、水槽全体を覆う様に広がって行き、
やがて白濁した大きな眼が現れた。
それは僕にじろりと一瞥をくれると
ゆっくりと水槽の奥に消えて行き、
今度はまたすぐに反対側から現れて、
僕の目の前に立つ様にしてゆっくりと静止した。
とても大きな生き物だった。
想像していた姿とはあまりにもかけ離れている。
はっきりと「おまえはなんだ」と問われた気がした。
僕の何倍もある大きな身体。
はっきりとこちらの目を見据えて来る知性。
微かに届く夕陽に照らし出されたその姿は、
僕が知っているどの生き物にも似ていない。
立ち竦む、という状態を、初めて知った瞬間だった。


それがジュゴンという名の生き物だと知ったのは、
随分経ってからの事だ。