“男らしい”とか “女らしい”とか
そういう表現を見たり聞いたりする度に
尻の辺りがむずむずする様な
何処か割り切れない居心地の悪さを感じる。
それは 憤り と呼べるほど強いものではなくて、
その証拠に、僕自身も時折そういう表現を使ってしまう。
そして使ってしまってから、やっぱりお尻がむずむずして
妙な居心地の悪さに苛まれる。


時折“男らしさ”というのが何を指すのか考えてみるのだが
どうも釈然としない。それが潔さや強さを指して言うのなら
何か覚悟を決めた時の女性の潔さや強さには目を瞠るものがあるし、
雄々しく猛々しく逞しい女性はいくらも居て、
そちらもけして男性の専売特許とは言えなさそうだ。
“女らしさ”についてはもっと曖昧で薄暈けた印象しか持っていない。
繊細で細やかで、競争や争い事よりも
詩や花を愛でる事を好む様な心優しい男性はいくらも居るし、
料理や裁縫が驚くほど得意な男性の友人も居る。
こちらもけして女性の専売特許ではない。


それでも“男らしい人”“女らしい人” は、
大抵において誉め言葉として使用され、
貶し言葉として使われる事はあまりない様に思う。
僕自身も他人に対してこの言葉を使う時、
それは賞賛や感嘆の言葉としてである。 


一方、“人間らしい”という言葉には
微塵も居心地の悪さを感じない。
情に脆く情け深い人を見ると、ああ、人間らしいな
と感じるし、愚かしく残酷な行いをするのも、
残念ながら“人間らしい”と言わざるを得ない。
そういう意味においては、僕は非常に“人間らしい”。
優柔不断で残虐な一面を持ち合わせ、同時に情に流され易い。




やたらと“男らしさ”に拘りのある人達と接すると、
ずーっと尻がむずむずしっぱなしだから、
そのうち草臥れて辟易してしまう。
“男らしさ”を連呼する人に限って
彼らが言うところの“女々しさ”が色濃く見え隠れして、
それが僕の「むずむず」を引き起こすのだ。
持たないからこそ渇望する、という心理はよく解る。
そう言う僕も“潔さ”には強い憧れを感じる。
潔くありたい、と切に思う。
それはきっと僕が潔い人間ではないからだ。



“男らしい”よりも
“女らしい”よりも
“人間らしい”よりも
“猫らしくて猫らしくない”チィさんが一番好きだ。


チィさんはとても“チィさんらしい”。
他に形容する言葉が見付からないほどに。