大江戸怪談草紙 井戸端婢子

大江戸怪談草紙 井戸端婢子 (竹書房文庫)

大江戸怪談草紙 井戸端婢子 (竹書房文庫)

江戸物、と言うのか 時代小説と言うのか、そういう形態の怪談話。
話の内容は根岸鎮衛の「耳袋」を彷彿とさせる。
最初のページに 「日向ちゃんへ、そっちの暮らしはどうだい?」
との言葉が添えられていて、本書が「百物語」を書いた
杉浦日向子へのオマージュである事を覗わせる。

百物語 (新潮文庫)

百物語 (新潮文庫)


どの話も面白かったが、中でも
「狸の駄賃」という短い話がとても気に入った。


街道で茶屋を営む一家と
僧侶に化けて度々茶屋へとやって来ては
大根飯や焼き団子を注文し、代金の代わりに小石を置いて行く狸。
主人はそれが狸だと気付いていながら、いつも注文を聞いてやる。
極限まで削ぎ落とされた短い文章の行間に、店の主人の暖かな人柄や、
街道にぽつんと佇む狸の姿が目に浮かぶ様で、素晴らしい短編。


懐かしい様な、ほんの少し寂しい様な気持ちになるのは
昔住んでいた処でよく狸を見掛けたのを思い出すからだろう。


線路脇の襤褸屋を借りて住んでいた頃、
家の裏には鬱蒼と木が茂っている雑木林があって、
そこは狸達の縄張りだった。
月夜の晩に窓を開け放って頭から毛布を被り、じっとして待っていると
狸達が手の届く様なところまで近付いて来た事もあるし
夜行性の筈の狸が春の陽気に誘い出されて
昼間から木漏れ日を浴びてふらふら歩き廻り、
寝惚けて文字通り転けたりするのを
窓から眺めて笑っていた。


近くには地元の人たちから「貉坂」と呼ばれる場所もあったから、
あそこはずっと昔から狸達の縄張りだったのだろう。
雑木林の木が鉄道会社によって全て伐採されてしまうと、
それきり狸達は姿を消した。
トラックが数多く行き交う道路に囲まれたあの場所で、
狸達が他に逃げ込める様な場所があっただろうか。
月夜の晩にすぐ側までやって来て、
不審げに僕の目を覗き込んだ真っ黒な瞳を思い出す。
月の光に照らし出された双眸は清んでいて美しかった。
そしてそれを思い出す度、何とも言えない寂しさを感じる。