友人に借りた漫画本の中に、
学生時代に通った珈琲屋の名前を見付ける。
偶然なのか、或いは作者もその店に通っていたのか、
絵の中のその珈琲屋は、何処となく実際のその店に似ている。


間口の狭い階段を上ってドアを開けると、
いつも同じ香りがした。煙草と珈琲の混ざった匂い。
ほっとする匂いだった。
通っていた美大のすぐ側にあるその小さなお店で、
学食が苦手だった僕は、よくお昼を抜いて珈琲を飲んだ。
アトリエを抜け出しては、その店で夕方迄本を読んで過ごした。
大学のすぐ側だというのに、その店に直行して珈琲を一杯飲み、
アトリエへは顔も出さずにアパートへ帰ったりした。
そんな事ばかりしていたから、大学には二年も余計に通った。
大学のすぐ側なのに、
その店で同級生や先輩と顔を合わせる事は殆どなかった。
いつもカウンターの奥に居るマスターは、
目が合っても、静かに目礼するだけで
親しげに話し掛けて来たりしなかった。
それが僕にはとても居心地が良かった。


何年かして大学院へ戻った時にも、
僕はやっぱり何度かアトリエを抜け出してその店へ行った。
作業着を着て木屑だらけで椅子に座っても、
店主は嫌な顔をせず、黙って珈琲を出してくれた。


その頃に、可愛がってくれた教授に連れられて
他の学生達何人かとその店に入った事がある。
教授は「旨い珈琲とチーズケーキを奢ってやる」
と言って、僕たちをその店へ連れて行った。
僕は普段からその店へよく通っている事を、教授には話さなかった。
店へ入って人数分の珈琲とチーズケーキを注文すると、
店主がすまなさそうに、「ケーキの数が一つ足りない」と言う。
教授はすぐに「僕はいいから君達食べなさい」と言ったが、
僕達が運ばれて来たケーキをむしゃむしゃ食べ始めると、
皆の顔を覗き込んでは「旨いかね?」と何度も訊いた。
僕は食べかけの皿をそーっと差し出して、
「先生も一口如何です?」と訊いた。
「いや、僕はいい。」 そして僕がまたおずおずとケーキに手を伸ばすと、
「旨いかね?」と、殆ど空になった皿を覗き込んだ。


教授と僕達とでは随分歳の差があったけれど、
その店ではまるで友達の様に軽口を叩いて、何でもないような話をした。
杖の柄に両手を乗せて、「旨いかね?」と首を伸ばす教授の顔を、
今でも時々思い出す。