死者の助け

長年お世話になった恩師の死、甥の死、両親の死。

様々な形の死について、考えさせられる機会が多くなった。

これは自分が歳を重ねた結果として自然な事であるし、自分の死については割合感傷的にならずに冷静に考える事が出来るが、妻や子の事については、これはもうどうしても考える事を避けたい、という気持ちが強く、ありとあらゆる手段を講じてそこから目を逸らそうとしてしまう。

人の生き死には、病気や事故など、ありとあらゆる理由で予測不可能なものではあるので、絶対に自分が先に逝ける、という保証はないのだけれども。

だからこそ何処かに、残していく人に伝えたい事を言葉にして置いておけるといいね、というような事を妻と話した。

あ、そういえばこの日記には予約投稿という機能があったな、と思い出す。

どれくらい先まで予約しておけるのか知らないけれども、今現在思っている事を書き留めておくには便利かな?などと考える。

遺書や遺言というほどの重々しいものではなく、もし明日突然に終わりが来たら、最近はこんな事を考えていたよ、というような置き手紙程度のもの。

そうしてみると、予約投稿の日を決めておくのが難しい。

何だか図ったように予約投稿される日の直前に不慮の事故に遭う、とかいう無駄に劇的な展開になるのも癪だし、あんまり先延ばしにしても意味がないようにも思うし。

軽めの遺書及び遺言、定期更新。とかにして、決められた期日にどんどんメモ書きを書き連ねるみたいに更新していくのがいいかな。

お買い物メモに、あ、あれも要るんだった、と書き足すような感じで。

 

上の子が、「どうして死んじゃうの?」とか「死んじゃっても治してもらうから大丈夫!」とか言うようになって、五歳児なりの死生観を語るようになってきたから、尚更あれもこれも伝えておきたい、というような事が増えるのだけれど、でもそれは今じゃなく、もう少し先の、最善と思えるタイミングで話したいのだ。

 

奥さんに、もしも僕の葬儀で喪主の挨拶をする事になったら、「夫は常々、死ぬのは長いトイレに行くようなものだ、と言っておりました…。あいつ、なかなかトイレから戻って来ないな、便秘かな?くらいの気持ちで見送ってやって下さい。」ていうのはどうかな、と冗談交じりに言っているのだけれど、満更嘘でもなくて、誰でもトイレに行くように、誰でも一度は死ぬのだ、と思っている。

待っても二度と戻って来ない、長い長いトイレ。

別れの言葉としては、ちょっと品がなさ過ぎるだろうか。

子供達には、命は最大限大切に、でも死を畏れるあまり、それに囚われ過ぎて生きる事を楽しめなくなって欲しくない。

自分も、最期の最期まで、目を向けさえすればお楽しみはきっとある、と思いたい。

 

父や母の死を経験し、それまでそれなりに持っていたつもりの死生観が微妙に形を崩し、新しいものに変化しつつある。

それは父の言った事、母の言った事を、彼らの生前よりもより強く意識するようになったからだ。

父ならこんな時こう言うだろう、こうしただろう、母ならきっとこう言うに違いない、という思いが、何かを判断、決断する時に随分助けとなっている。

これはきっと怒られるだろうな…と思いながら、彼らの言葉に背く事もけして少なくはないのだけれど、それでも一人で考え込んでいた時よりも、少しは多面的に物事を見られるようになったように思う。

以前の僕ならこうしたろうけど、それはきっとお叱りを受けるだろうな、彼らならこうしたかな、それでは別な方法もあるかも知れないな、もう少し考えてみようかな、という具合に。

生前は聞く耳を持たず反発したりして、随分と不義理の限りを尽くしたというのに、皮肉なものだ。

死者の助けを受けている、と言うと妙な感じだけれど、肉体の死とは別に、彼らの精神の一部は僕や彼らを記憶に留めている全ての人達の中に様々な形で存在し、それがあるうちは、少なくとも僕の中には、別な形での彼らの「生」がある。

そんな風に考えるようになった。

僕もまた、家族の中に、そのように何かを残していけたら幸せだと感じる。

その一助として、曖昧で掴みづらい僕の一部を、こうして書き残しておこうと思う。

 

 イショおよびユイゴンみたいな置き手紙、ていうカテゴリーを作ろうかな。

 

 

 

 

バンシー

三十日の十時を回った頃。

甥が自死したらしい、との知らせを受ける。

何故そのような事になったのか、詳しい事情が全く解らず、困惑する。

甥が成人してからは、日頃から親しく接していた訳ではないが、小さな頃には何度か子守を引き受けたりした事があった。

人懐こくて、「おいで。」と声を掛けると、さも構われるのが嬉しい、といった様子で、何をするわけでもなく、只にこにこしながらいつまでも傍に居た。

丁度今の家の長男と同じ年頃だったからだろうか、その嬉しそうな顔ばかりが思い出される。

事情があり、兄は殆ど男手一つで子供達を育てた。

仕事が忙しく、家で過せる時間はほんの僅かしかない。

父も母も、家で兄の帰りを待つ孫達を心配して、何くれとなく世話を焼いて気に掛けた。

僕が実家を離れてからはあまり顔を合わせる機会もなく、気付けば甥はもうすっかり大人になっていて、家を出て家族ともあまり連絡を取らなくなっていた。

それが近年ひょっこりと帰って来て一緒に暮らすようになり、長い時を経て、また家族の時間が戻って来たようだった。

亡くなる前の母も、孫の帰還をとても喜んでいたのだ。

それがどうしてこんな事に…と思う。

傍で遊んでいる息子の顔と、幼かった頃の甥の顔が重なる。

子供にこうした形で先立たれる悲しみや苦しみはいかばかりか。

驚き。悲しみ。困惑。怒り。後悔。諦め。

どのような慰めも意味をなさない、深い深い暗闇の底へ突き落とされるかのような絶望感。

それらが全て一気に押し寄せてくるように感じる。

気が塞ぐ。

僕でさえそうなのだ。

親や兄弟である彼らは今、どんな気持ちでいるだろう。

それを思うと葬儀へ向かう足取りはどんどん重く、苦しく感じられた。

妻が同伴してくれた事で、いくらかは救われたのだけれど。

 

兄が気丈に喪主の挨拶をする。

平素と変わらぬように話そうとするが、矢張り声が詰まり、肩が震える。

人前で涙を見せる事など想像するのも難しい父だったから、泣き方だけは教わらなかった。

上手な悲しみ方を教わらなかった。

「小言もあるが、最期は、息子でいてくれてありがとう、来世でもまた親子でいような、次はもっと上手くやろう、あの世で頑張ってまた戻って来い」と送り出したい、と言った。

そうやって自分の気持ちに折り合いをつけ、何とか踏み留まっているのが判った。

どれほど悔しく、どれほど深い暗闇の底に居るか。

 

遺骨となって、骨壷に収める為火葬場の職員に突き崩されていく甥の頭骨を見て、改めてもう彼はここには居ないのだ、と思い知らされる。

もう、どうする事も出来ない。

あの時ああすれば良かった、こうしてたら何かが変わったろうかと思う事が、もう何の意味もなさないのは頭では解っていても、考えるのを止められない。

 

自分の息子の遺骨に手を合わせ、一礼する兄の後ろ姿を見る。

親にこんな風に頭を下げさせるなんて、とやり切れない気持ちになる。

亡くなった者を責めたり貶めたりする気は毛頭ないけれど、なんで、どうして、という気持ちは収まらない。

 

もし自分がこのような立場に置かれたら、こんな風に立っていられるだろうか。

急な話で吃驚させちゃったね、と笑いかけさえしようとする兄に、何の慰めの言葉も掛けられず、「いや、じゃあまた。」と矢張り普段通り返して別れるのが、精一杯だった。

 

 

家で変事のあった翌日、甥は亡くなった。

嘆息や泣き声を聞かせてその家の近親者の不幸を知らせるという嘆きの妖精、バンシーの伝説を思い出した。

あの、聴いた者を不安にさせる深い憂いを含んだ哀しげな溜息の正体は何だったのだろう。

 

甥の葬儀は二月二日に執り行われた。

奇しくもその日、僕の息子は五歳の誕生日を迎えた。

だからこそ、考えずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

 

硝子と会話

二つの夢を見た。

 

一つ目の夢。

屋上に硝子張りの温室がある、古びた三階建ての家で暮らしている。

知り合ってまだ間もない女性が訊ねて来て、その温室の中で会話をしている。

互いの事をまだよくは知らないが、会話の内容は大変興味深く、とても楽しい。

女性は切れ長な目の上で長い髪を真っ直ぐに切り揃えた長身な人で、感じている事をあまり顔に出さないタイプらしいので、表情からは気持ちを読み取りづらい。

出来ればこの人ともっと親しくなりたいな、と考えながら、バランスゲームのように互いの様子を見つつ、慎重に会話を進めて少しづつ距離を縮めて行く。

階下にはそこで共同生活をしているらしき友人が二人(女性と男性だったと思う)居て、僕達の様子に気付いて邪魔をしないように気遣いつつ、時々クスクス笑い合ったりしながら見守っている。

それが何だか少し照れくさい。

午後の日差しは柔らかで硝子張りの温室はとても暖かく、ゆっくりとした穏やかな時間が流れている。

 

二つ目の夢。

何処か異国の街。

初老に差し掛かったくらいのふくよかな中年女性と小さな女の子が、その女性の家の玄関先にある階段に腰掛けて話をしている。

二人は親子ではなく、それほど親しくもない。

二人とも小声で静かに、ゆっくりと話す。

暫く会話をした後、女性が花柄のワンピースのポケットから、丁度掌に収まるくらいのレンズ状の硝子のおはじきかコインのような物を取り出す。

表面には何か見た事のない文字のようなものが刻まれている。

それを女の子の掌に乗せ、自分の手を重ねて呪文らしきものを詠唱する。

それまで何処か具合の悪いところでもあるのか少し元気のなかった女の子が顔を輝かせ、声を弾ませて「おばちゃんはすごいね、本当に魔法が使えるんだね!」と言う。

女性は、誰にでもしてあげられるわけじゃないし、望んだ時にいつでも出来るというものでもない。

硝子のコインにも呪文にも本当は意味などなく、その力を発動させやすくする為のスイッチとして利用しているに過ぎない。

誰かの痛みを取り除けば一旦その痛みは自分のものとなり、硝子のレンズを通してそのダメージを逃がしているのだ、と話す。

それでもあまりに大きな痛みは逃し切れずに自分の中に残ってしまうし、そもそも波長の合う相手でなければ何の効果も表さない。

だから魔法というのとは違うよ、と。

女の子にも似たような力があるが、それは母親から受け継いだもので、その母親は何の道具も使わずに人を癒やす事が出来たが、それを知った人達が詰めかけて断り切れず、段々に疲弊して、しまいには亡くなってしまった、という身の上話を哀しそうに聞く女性。

母親に「あなたは絶対に同じ事をしないで」と言われたから、女の子は自らの力を封印して誰にも知られないようにしているのだ、と話す。

女性が女の子の髪をそっと撫でる。

 

と、そこで「朝だよ〜」と下の子の甲高い声。

夢の大半は消え去ってしまった。

僕にしては珍しいタイプの夢なので書き留める。

二つの夢に共通するキーワードは「硝子」「親しくない者同士の会話」「静かで穏やかな雰囲気」。

何か意味を読み取れそうな気もしなくもないが…。

 

私事で悲しい出来事があり、それが少々骨身に堪えた。

癒やされたい、という無意識の現れか、とも思う。

 

 

 

 

 

 

 

溜息

年末に子がインフル羅患などして、気がつけば年も明け、早くも月が変わろうとしている。

時が経つのが早過ぎて、気持ちがちっとも追いつかない。

忙しい、などと言ったら叱られそうな、ぐうたらした毎日である筈なのに、どういう訳だか慌ただしくはあって、色々な余裕がない。

良くないな、と思う。

これでは本当に忙しい毎日をおくっている人達に申し訳が立たない。

ぐうたらするにも作法がある、と思う。

もっときちんとぐうたらしなければ。

 

先日の話。

雪が降った。

薄っすらと積もった雪。

次の日が晴れさえすれば、跡形もなく消え去ってしまいそうな儚い雪。

けれども、陽の温もりから忘れ去られたような裏通りには、薄く硬い氷となって、幾日も幾日も未練がましくしがみつく。

家は生憎とそんな道路に囲まれた場所にある。

おまけに滑って転ぶには絶妙な坂道で、小さな子二人の手を引いて歩けば、坂を登り切る前に少なくとも三度は転ぶに違いない。

角を曲がり切れずに斜めになりながら滑って行く車を窓から見下ろして、保育園は休ませる事に決めた。

前の日から段々に酷くなる子供の咳が気掛かりな事も手伝って、その週は家に引き篭もって、あれやこれやと世話を焼きながら過ごす。

少し具合が良くなってくれば子は退屈を持て余すので、週末には買い出しに連れ出した。

帰ってからまた夕餉の支度をするのも億劫で、出来合いのものを買い込んで来て、皆でつついていた。

子供達はいつも通り騒がしくじゃれ合いながら食事をしている。

僕と妻も、何かを話していたと思う。

何を話していたのかは思い出せない。

おそらくは、最近は野菜が高くて困るだの、遅い時間にスーパーに行くと寿司が安く買えて助かるだのといった、とるに足らない事だろう。

突然、女の声がした。

それはあまりにもはっきりと、食卓からごく近い場所で聞こえたので、妻と顔を見合わせて驚くのに、妙な間が出来た。

二人ともすぐに反応する事が出来なかった。

それから妻が席を立って僕に玄関を検めて来るよう促し、珍しく怯えた表情になって子供達を庇うように傍に立った。

玄関は勿論施錠されており、何の異常もなかった。家中の何処にも変わったところはない。

妻は自室の方から聞こえたと言い、僕も自分の部屋の前辺りから聞こえた様だと思った。

それは猫の鳴き声にも、悲鳴にも似た、女の大きな溜息だった。

「はぁぁぁ〜〜ん」

絶望と強い諦めを含んだ様な、いつまでも耳に粘りつく様な、間延びした嫌な響きだった。

溜息の癖に妙に主張が強い。

はっきりとし過ぎている。

騒がしく食事をしていた最中の事でもあり、ほんの一瞬聞き流して箸を止めずにいたのだけれど、それでも顔を見合わせた瞬間、二人ともはっきりと異常な事が起きたのだ、と認識した。

別な階から聞こえた可能性や、外から聞こえたのかも、とも言い合ったが、二人ともそうではないと解っていた。

そんな遠くから聞こえたとはとても思えなかった。

すぐそこで声がしたのだ。

締め切った窓の外や、厚い壁を通した別な階などからではけしてない、手の届きそうな距離でこその生々しさがあった。

だからこそ妻は危険を感じたのだろう。

妻は、先程帰宅した際に施錠を忘れて誰か知らない人が家の中に入って来てしまった、しかもそれは普通に話の通じる相手ではなさそうだ、と思ったらしい。

僕は最初、外から聞こえたのだ、と思い込もうとしたのだろう。

家の中から家族以外の声がする筈はない。

しかしその考えはうまく行かなかった。

 

怖いという気持ちよりも、何だか釈然としない居心地の悪さみたいなものが強くて、何か上手く説明をつけて「なーんだそんな事か」と言いたいのだろう。

けれども自分の知覚を疑ったり否定したりするのはなかなかに困難だ。

 

上の子が、「もうその話やめてー!」と怯え出したので、大丈夫、怖くないよ、と笑い合ってそのまま食事を続けた。

上の子もその声をはっきりと聞いていたからだろう。

僕はすぐに何だか可笑しくなってしまって、妙な事があるといつもそうなのだけど、一生懸命理屈をつけて何とか自分に納得のいく説明をしようと試みるのだけど、結局うまくいかないから、もう笑うくらいしか出来る事がない。

それでへらへらしながら「何だか不思議な事があるね。こんな話、きっと誰に話しても信じて貰えないね。」などと言いながら笑っていた。

 

それでもそのまま忘れてしまうには何だか惜しい気がして、ここに書き残しておく。

 

一月二十八日、九時半頃の事である。

 

 

 

 

 

 

父の骨

父の葬儀、何とか滞りなく。

母の時と同じ葬儀場、火葬場。

そして母の時と全く同じく、厳かな気持ちで臨んだのに、火葬場のトイレにて社会の窓が全開であった事に気付く。

 母の時とあんまり同じシチュエーションなので、気付いた瞬間、驚きのあまり妙な声が漏れた。

何人の参列者の方が気付いたろう…。

気付いたとしてもこれは指摘し辛いよな…。

念の為に言っておくが、普段はこんな事、全くない。

わりとそういう隙のない方、だと思う。

平静なつもりでいても、矢張り動揺している、という事なのだろうか。

 

霊柩車に棺を収めて火葬場へ向かう際、離れずぴったり着いて行かねば、と思った妻は緊張の面持ちでハンドルを握っている。

それから後部シートに座る長男のシートベルトを締め忘れている事に気付いた。

空の骨壷を胸に抱いた僕の代わりに、妻が後ろへ身を乗り出す。

その途端、車がゆるゆると前進し始めた。

ギアはドライブに、サイドブレーキは解除したところだった。

まだ出発していない霊柩車にぶつける数センチ手前で、危うくブレーキを踏む。

 

既の所で、後々まで我が家に語り継がれるレジェンドを打ち立てるところだった。

もしあのままぶつけていたら、流石の父も驚いて棺から起き上がって来そうな気がする。

矢っ張り二人とも、少し動揺しているのかも知れない。

 

焼き上がった父の骨は真っ白で、まるで骨格標本みたいに完全な形を保っていた。

笑い出したくなるくらいに頑丈そうな、鬼の棍棒みたいなぶっとい大腿骨。

角でも生やしたら様になりそうな大きな頭蓋骨。

幾つもの拳骨が重なったみたいな厳つい背骨。

まるで鬼の骨だ。

 

格好良い。

親の遺骨を見た感想としては、少々おかしいかも知れないけれど、本当に格好良かった。

写真に収めておきたいくらいだったけれど、不謹慎に思われそうで流石に言い出せなかった。

 

ああ、やっぱり格好良い人だったんだ。

そう思った。

心からそう思えた事が嬉しかった。

病に弱った自分の姿じゃなく、この姿を憶えててくれ、と、そう言われた気がした。

大きくて強かった父。

鬼みたいに何も恐れなかった父。

真っ白な骨を見た時、その姿を思い出した。

きっとめそめそ見送って欲しくなどないだろうから、泣かない。

強かったあなたを、ずっとずっと、憶えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父のこと

 父が亡くなった。

四月にこの日記に父の事を書いてから五ヶ月。

病院のベッドで、安全の為に着けられたミトンを嫌がりながら、何度も危険な状態になりながら、呆れるほどの強靭さでその度に持ち直した。

もう回復の見込みが無いのなら、出来るだけ苦しまないで楽にしていて欲しい、という僕の甘い考えを見透かす様に、最期まで父は父らしく、戦い続けて逝った。

我慢と忍耐が服を着て歩いている様な、そんな人だった。

痛いだの辛いだのと弱音を吐く姿を一度も見た事がない。

こうあるべき、という姿を徹底して貫き通した。

また、そうした為に家族との距離も生まれた。

自分を律する、という事に本当に厳しかった。

誰よりも早く出社して掃除をして仕事を始める社長の下では、社員はさぞ辛かろう、社長出勤の意味が違う、と母がこぼしていたのを憶えている。

経営者たる者こうあるべき、家長はこうあるべき、男はこうあるべき、という姿勢を頑として崩さなかった。

崩れた姿を誰にも見せない。

弱いところを子供達の前では絶対に出さない。

そもそも弱い部分があったのかさえ疑わしい、と思わせるほどに。

隙がなさ過ぎて、近寄り難かった。

子供の頃、友人が遊びに来て僕と父の会話を聞くと決まっていつも訊ねられた。

「本当のお父さんなんだよね?どうしてそんな話し方なの?」

他の家ではどうもこうじゃないらしい、という事を、その頃になってようやく知った。

そうしなさい、と言われた訳ではない。

知らず知らずのうちに、父に話し掛ける時には敬語を使うようになっていた。

もっと親しく話せたら、もっと言葉数を多く交わせたら、聴いておくべき事は山ほどあったのに、そうすべき時に僕はそうしなかった。

十八で家を出るとそれ切り、盆にも正月にもろくに帰らなかった。

何と浅はかだったろう、と今にして思う。

口数の少ない父が、絶対に自分では電話を掛けて寄越さない父が、何度も母に電話を促して僕の様子を気に掛けていたのを知りながら、僕はその事について深く考えずにいた。

気付かないふりをした。

父の子供時代の事を殆ど知らない。

戦争に行った事、シベリア抑留の事、母との出会い。

そういう話をもっと訊ねておくべきだった。

知っておかなければならない事が沢山あったのに、聞かなかった。

父も、自分から多くを語ろうとはしなかった。

 

住職が戒名を決める参考に、と言って、父の事を訊ねられた。

子供が三人いて、誰も趣味を答えられない。

厳格だった、という言葉しか出て来ない。

歳の離れた兄なら、僕とはまた違った言葉が出て来るものと思っていたのに、その答えは僕の持っていたものと寸分変わりない。

父とキャッチボールをして遊んだ事は、一度もない。

兄達もまた、そうなのだろうか。

 

幼い頃の父の思い出は、冬のまだ薄暗いうちに起き出して布団から出る時、自分が寝ていた布団の温もりが冷めぬ様に掛け布団をきちんとして、それから布団を指差して、寝ぼけ眼の僕に言うのだ。

「まだ暖かいぞ。」

僕は父の寝ていた布団に潜り込んで、もう一度眠る。

身体の大きかった父の布団は隅々まで暖まっていて、外の冷気から僕をすっぽり包み込んで、護ってくれる様だった。

 

冗談を言う人ではなかったが、好きな酒が入ると、少しだけ柔軟になった。

晩酌の後に父と母が何か話していて、それから母が何を思ったか、自分が着けていたカチューシャを父に着けようとした。

父も仏頂面をしてされるがままにしている。

頭の大きさが違うから、カチューシャをうんと広げて父の頭に着けようとした瞬間、母は手を滑らせた。

「パッチーン!」と大きな音を立てて、カチューシャが父のこめかみに直撃する。

父が珍しく「いてっ!」と声を上げ、母はその様子に慌てて父のこめかみを撫でながら謝る。

それからすぐに、可笑しくてたまらない、という風に顔を真赤にして笑い出した。

父もつられて、怒ったような顔をしながら吹き出す。

「笑い事じゃない」と言いながら、二人は暫く笑い合った。

そうした様子を見る事が子供に与える安心感のようなものは、計り知れない。

その瞬間、満たされて、そこに居られる事が本当に幸せだった。

今もはっきりと憶えている。

尤も、滅多にそんな出来事は起こらなかったけれど。

 

 

今日、父の額に手を当ててお別れをした。

吃驚するほど冷たくて、硬い額だった。

あの世、と呼ばれるものがもしもあるのなら、無事に母の処へ行けただろうか。

母はどんな顔で出迎えるだろう。

きっといつもの様に笑って、小走りに駆け寄る。

父は照れ隠しにわざとゆっくりと歩を進め、軽く敬礼をするみたいに額に手を当て、「よう。」と言う。

 

どうか、安らかに。

あなた達の息子で、幸せでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

慣れ

 

今週のお題「ちょっとコワい話」

 

久し振りに覗いたら、Blogのお題、というのが目に入って、それが「ちょっとコワい話」というので、暑気払いになるかどうか判らないけれど珍しく乗っかってみることにする。

 

まだ猫一匹と人一人で暮らしていた頃、ちょっとした事情があって、以前に鍼灸院として使われていた旧い建物に棲んだ事があった。

二階建てで、診療ベッドを幾つも並べてカーテンで仕切っていた診察室の名残がそのままにあって、元々住居として建てられたものではなかったから住まいとして使うにはいくらかの工夫が必用だったけれど、広々としていて猫も一階と二階を自由に駆け回って快適そうにしていたので、僕としては何の不満も無かった。

しかしそれまで都内の息も詰まる様な狭いワンルームで暮らしていた所為か、急にがらんとした家で眠るのに不慣れで、越してすぐは寝付きが悪く、おかしな夢を見ることが度々あった。

眠っていると、二階にゆっくりと上がって来る階段の軋む音がして、ふわりとした白いワンピースを着て、髪を後ろでお団子にした白人の中年女性が現れて、僕のベッドの周りをふわふわと漂いながら、聞き覚えのない言葉で何かを盛んに耳許で囁く。

髪も肌も服も全体に白っぽくて、大柄ではないが幾分ふくよかな感じの人で、怖いというほどでもないのだけれど何を言っているのかさっぱり解らないし、どうにも場違いな感じでもあるし、兎に角距離が近いので気味は悪い。

起きてからも夢にしてははっきりとした印象が残っていて、つい先程までこの部屋に誰か居た、という感じがして奇妙な体験だった。

これはまあ夢見が悪かった、というだけのことであって、珍しくもない。

 

この建物にあった鍼灸院はすぐ近くに新築して移転していたのだが、時折以前の患者さんが間違えて訪ねて来てしまうことがあった。

そういう時は丁寧に移転先を案内してお引き取り願っていたのだけれど、暫くするとそれが明らかに診療時間外の時にも起こるようになった。

建付けの良くない古い建物な上に診療院によくある硝子扉だから、施錠をしていても外からドアを開けようとするとサッシが大きな音を立ててギイッと鳴る。

その上二階の雨戸も振動でぼわんぼわんと大きな音を立てるので、すぐに気付いて玄関へ出向くのだけど、つい今しがたまで鳴っていたドアを開けると、もう誰も居ない。

それは夜半だったり、明方のまだ薄暗い時間帯によく起こった。

ドアにでかでかと移転先の張り紙もしていたし、病院でも案内を出していたから、そのうちそうした間違いは殆ど起こらなくなったのだけれど、それでも時折間違えて来てしまうのはかなり御高齢な患者さんが多く、そうした患者さんの中には暫くお見掛けしないなと思っていたら、何時の間にかお亡くなりになっていたということも然程珍しくはない、という話を聞いた。

 

矢張りこの鍼灸院の関係者から聞いた話でこんなエピソードがある。

ある常連患者さんで、一階の待合に座る場所もない程混んでいる時に、治療が必用な状態の高齢女性を立たせたまま長く待たせるのを気の毒に思った施術師が、二階なら席が空いているからどうぞ、と二階へ通そうとするのだけれど、どんなに勧めても頑なにそれを拒むので、不思議に思って理由を訊ねると、二階はいつも、もう居なくなってしまった筈の古い常連患者さんたちで満席だから、と答えたのだそうだ。

 

時間に縛られず昼となく夜となく訪ねて来てはドアを鳴らしていたのは、一体誰だったのか、何時の間にか、ドアが軋むのも雨戸が鳴るのにも、階段がゆっくりとした足取りで踏みしめられるように音を立てるのにも慣れ、一々出向いて様子を窺う様なこともしなくなった。

 

慣れというのは怖いもので、人は大抵の事に慣れてしまう。

何度も繰り返し体験するうち、感度が鈍くなるというのか、麻痺するというのか、兎に角一々反応しなくなる。

この頃この家で使っていたのは、当時としてもけして新しくはないブラウン管のテレビで、大型のスピーカーを搭載しているのを売りにした、無駄にでかくて重たく黒い、薄くて軽い物ばかりが持て囃される中で取り残された、「時代の遺物」だった。

音はそれなりに良かったので映画を観るのにもゲームをするのにも都合が良かったが、これがここへ越してからというもの、段々に狂い始めた。

狂う、という表現がぴったりの壊れ方で、番組の途中でもゲームの途中でも、いいところでお構いなしに勝手にチャンネルが変わる、ボリュームが勝手に大きくなったり小さくなったり、挙げ句の果てには勝手に切れて無反応になる。

諦めてリモコンを投げ出すと勝手に電源が入る、といった調子だ。

真夜中に突然電源が入って砂嵐を映し出し、ザーザーという音量を最大に上げて叩き起こされた時は流石に驚いて固まったが、暫くするとまた勝手に切れて、部屋は何事もなかったように静まり返った。

来客のある時も点いたり消えたり勝手にチャンネルを変えられたりが頻発するので、何時の間にかそれが当たり前になって、客も僕ももうそういうものだと諦めてそのままにしていた。

慣れた客になると、最初は気味悪がっていた者もゲームの途中でチャンネルが変わるので、テレビに向かって悪態をつくぐらいにまでなった。

何しろ買い換えるお金もなかったし、全く使えないという訳でもないのでついそのままに過ごしたけれど、今になって思い出すとちょっとしたB級ホラー映画の演出みたいなことが、日常茶飯事に起こっていた。

 

今にして思えば、どうして当時もっと怖いと感じなかったのだろう。

その都度怖いとは思った筈だが、こうして事象を書き留めると、もっと怯えてもよさそうなものだという気がする。

 

猫が居たからだろうか。

細くて小さくて、抱くと本当に驚くほどに軽い猫だったが、いつも凛として白く輝いていた。

常に堂々として、主の様に振る舞っていた。

実際、そうだったかも知れない。

どんな暗闇でも手を伸ばせば、柔らかで温かいその身体に触れる事が出来た。

いつも傍に居て、指先にその温もりや喉を鳴らすのが伝わるだけで、殆どのことが、取るに足らない些細なこと、と思えた。

 

触れることが叶わなくなってから、もう数年が過ぎた。

今も恋しく思わない日はない。

どんなことにも慣れるのに、手を伸ばしてもそこに居ないことに、暗闇で喉を鳴らす音が聞こえて来ないのにも、まだ慣れない。

 

猫も盆には、戻ればいい。

 

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