溜息

年末に子がインフル羅患などして、気がつけば年も明け、早くも月が変わろうとしている。

時が経つのが早過ぎて、気持ちがちっとも追いつかない。

忙しい、などと言ったら叱られそうな、ぐうたらした毎日である筈なのに、どういう訳だか慌ただしくはあって、色々な余裕がない。

良くないな、と思う。

これでは本当に忙しい毎日をおくっている人達に申し訳が立たない。

ぐうたらするにも作法がある、と思う。

もっときちんとぐうたらしなければ。

 

先日の話。

雪が降った。

薄っすらと積もった雪。

次の日が晴れさえすれば、跡形もなく消え去ってしまいそうな儚い雪。

けれども、陽の温もりから忘れ去られたような裏通りには、薄く硬い氷となって、幾日も幾日も未練がましくしがみつく。

家は生憎とそんな道路に囲まれた場所にある。

おまけに滑って転ぶには絶妙な坂道で、小さな子二人の手を引いて歩けば、坂を登り切る前に少なくとも三度は転ぶに違いない。

角を曲がり切れずに斜めになりながら滑って行く車を窓から見下ろして、保育園は休ませる事に決めた。

前の日から段々に酷くなる子供の咳が気掛かりな事も手伝って、その週は家に引き篭もって、あれやこれやと世話を焼きながら過ごす。

少し具合が良くなってくれば子は退屈を持て余すので、週末には買い出しに連れ出した。

帰ってからまた夕餉の支度をするのも億劫で、出来合いのものを買い込んで来て、皆でつついていた。

子供達はいつも通り騒がしくじゃれ合いながら食事をしている。

僕と妻も、何かを話していたと思う。

何を話していたのかは思い出せない。

おそらくは、最近は野菜が高くて困るだの、遅い時間にスーパーに行くと寿司が安く買えて助かるだのといった、とるに足らない事だろう。

突然、女の声がした。

それはあまりにもはっきりと、食卓からごく近い場所で聞こえたので、妻と顔を見合わせて驚くのに、妙な間が出来た。

二人ともすぐに反応する事が出来なかった。

それから妻が席を立って僕に玄関を検めて来るよう促し、珍しく怯えた表情になって子供達を庇うように傍に立った。

玄関は勿論施錠されており、何の異常もなかった。家中の何処にも変わったところはない。

妻は自室の方から聞こえたと言い、僕も自分の部屋の前辺りから聞こえた様だと思った。

それは猫の鳴き声にも、悲鳴にも似た、女の大きな溜息だった。

「はぁぁぁ〜〜ん」

絶望と強い諦めを含んだ様な、いつまでも耳に粘りつく様な、間延びした嫌な響きだった。

溜息の癖に妙に主張が強い。

はっきりとし過ぎている。

騒がしく食事をしていた最中の事でもあり、ほんの一瞬聞き流して箸を止めずにいたのだけれど、それでも顔を見合わせた瞬間、二人ともはっきりと異常な事が起きたのだ、と認識した。

別な階から聞こえた可能性や、外から聞こえたのかも、とも言い合ったが、二人ともそうではないと解っていた。

そんな遠くから聞こえたとはとても思えなかった。

すぐそこで声がしたのだ。

締め切った窓の外や、厚い壁を通した別な階などからではけしてない、手の届きそうな距離でこその生々しさがあった。

だからこそ妻は危険を感じたのだろう。

妻は、先程帰宅した際に施錠を忘れて誰か知らない人が家の中に入って来てしまった、しかもそれは普通に話の通じる相手ではなさそうだ、と思ったらしい。

僕は最初、外から聞こえたのだ、と思い込もうとしたのだろう。

家の中から家族以外の声がする筈はない。

しかしその考えはうまく行かなかった。

 

怖いという気持ちよりも、何だか釈然としない居心地の悪さみたいなものが強くて、何か上手く説明をつけて「なーんだそんな事か」と言いたいのだろう。

けれども自分の知覚を疑ったり否定したりするのはなかなかに困難だ。

 

上の子が、「もうその話やめてー!」と怯え出したので、大丈夫、怖くないよ、と笑い合ってそのまま食事を続けた。

上の子もその声をはっきりと聞いていたからだろう。

僕はすぐに何だか可笑しくなってしまって、妙な事があるといつもそうなのだけど、一生懸命理屈をつけて何とか自分に納得のいく説明をしようと試みるのだけど、結局うまくいかないから、もう笑うくらいしか出来る事がない。

それでへらへらしながら「何だか不思議な事があるね。こんな話、きっと誰に話しても信じて貰えないね。」などと言いながら笑っていた。

 

それでもそのまま忘れてしまうには何だか惜しい気がして、ここに書き残しておく。

 

一月二十八日、九時半頃の事である。

 

 

 

 

 

 

父の骨

父の葬儀、何とか滞りなく。

母の時と同じ葬儀場、火葬場。

そして母の時と全く同じく、厳かな気持ちで臨んだのに、火葬場のトイレにて社会の窓が全開であった事に気付く。

 母の時とあんまり同じシチュエーションなので、気付いた瞬間、驚きのあまり妙な声が漏れた。

何人の参列者の方が気付いたろう…。

気付いたとしてもこれは指摘し辛いよな…。

念の為に言っておくが、普段はこんな事、全くない。

わりとそういう隙のない方、だと思う。

平静なつもりでいても、矢張り動揺している、という事なのだろうか。

 

霊柩車に棺を収めて火葬場へ向かう際、離れずぴったり着いて行かねば、と思った妻は緊張の面持ちでハンドルを握っている。

それから後部シートに座る長男のシートベルトを締め忘れている事に気付いた。

空の骨壷を胸に抱いた僕の代わりに、妻が後ろへ身を乗り出す。

その途端、車がゆるゆると前進し始めた。

ギアはドライブに、サイドブレーキは解除したところだった。

まだ出発していない霊柩車にぶつける数センチ手前で、危うくブレーキを踏む。

 

既の所で、後々まで我が家に語り継がれるレジェンドを打ち立てるところだった。

もしあのままぶつけていたら、流石の父も驚いて棺から起き上がって来そうな気がする。

矢っ張り二人とも、少し動揺しているのかも知れない。

 

焼き上がった父の骨は真っ白で、まるで骨格標本みたいに完全な形を保っていた。

笑い出したくなるくらいに頑丈そうな、鬼の棍棒みたいなぶっとい大腿骨。

角でも生やしたら様になりそうな大きな頭蓋骨。

幾つもの拳骨が重なったみたいな厳つい背骨。

まるで鬼の骨だ。

 

格好良い。

親の遺骨を見た感想としては、少々おかしいかも知れないけれど、本当に格好良かった。

写真に収めておきたいくらいだったけれど、不謹慎に思われそうで流石に言い出せなかった。

 

ああ、やっぱり格好良い人だったんだ。

そう思った。

心からそう思えた事が嬉しかった。

病に弱った自分の姿じゃなく、この姿を憶えててくれ、と、そう言われた気がした。

大きくて強かった父。

鬼みたいに何も恐れなかった父。

真っ白な骨を見た時、その姿を思い出した。

きっとめそめそ見送って欲しくなどないだろうから、泣かない。

強かったあなたを、ずっとずっと、憶えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父のこと

 父が亡くなった。

四月にこの日記に父の事を書いてから五ヶ月。

病院のベッドで、安全の為に着けられたミトンを嫌がりながら、何度も危険な状態になりながら、呆れるほどの強靭さでその度に持ち直した。

もう回復の見込みが無いのなら、出来るだけ苦しまないで楽にしていて欲しい、という僕の甘い考えを見透かす様に、最期まで父は父らしく、戦い続けて逝った。

我慢と忍耐が服を着て歩いている様な、そんな人だった。

痛いだの辛いだのと弱音を吐く姿を一度も見た事がない。

こうあるべき、という姿を徹底して貫き通した。

また、そうした為に家族との距離も生まれた。

自分を律する、という事に本当に厳しかった。

誰よりも早く出社して掃除をして仕事を始める社長の下では、社員はさぞ辛かろう、社長出勤の意味が違う、と母がこぼしていたのを憶えている。

経営者たる者こうあるべき、家長はこうあるべき、男はこうあるべき、という姿勢を頑として崩さなかった。

崩れた姿を誰にも見せない。

弱いところを子供達の前では絶対に出さない。

そもそも弱い部分があったのかさえ疑わしい、と思わせるほどに。

隙がなさ過ぎて、近寄り難かった。

子供の頃、友人が遊びに来て僕と父の会話を聞くと決まっていつも訊ねられた。

「本当のお父さんなんだよね?どうしてそんな話し方なの?」

他の家ではどうもこうじゃないらしい、という事を、その頃になってようやく知った。

そうしなさい、と言われた訳ではない。

知らず知らずのうちに、父に話し掛ける時には敬語を使うようになっていた。

もっと親しく話せたら、もっと言葉数を多く交わせたら、聴いておくべき事は山ほどあったのに、そうすべき時に僕はそうしなかった。

十八で家を出るとそれ切り、盆にも正月にもろくに帰らなかった。

何と浅はかだったろう、と今にして思う。

口数の少ない父が、絶対に自分では電話を掛けて寄越さない父が、何度も母に電話を促して僕の様子を気に掛けていたのを知りながら、僕はその事について深く考えずにいた。

気付かないふりをした。

父の子供時代の事を殆ど知らない。

戦争に行った事、シベリア抑留の事、母との出会い。

そういう話をもっと訊ねておくべきだった。

知っておかなければならない事が沢山あったのに、聞かなかった。

父も、自分から多くを語ろうとはしなかった。

 

住職が戒名を決める参考に、と言って、父の事を訊ねられた。

子供が三人いて、誰も趣味を答えられない。

厳格だった、という言葉しか出て来ない。

歳の離れた兄なら、僕とはまた違った言葉が出て来るものと思っていたのに、その答えは僕の持っていたものと寸分変わりない。

父とキャッチボールをして遊んだ事は、一度もない。

兄達もまた、そうなのだろうか。

 

幼い頃の父の思い出は、冬のまだ薄暗いうちに起き出して布団から出る時、自分が寝ていた布団の温もりが冷めぬ様に掛け布団をきちんとして、それから布団を指差して、寝ぼけ眼の僕に言うのだ。

「まだ暖かいぞ。」

僕は父の寝ていた布団に潜り込んで、もう一度眠る。

身体の大きかった父の布団は隅々まで暖まっていて、外の冷気から僕をすっぽり包み込んで、護ってくれる様だった。

 

冗談を言う人ではなかったが、好きな酒が入ると、少しだけ柔軟になった。

晩酌の後に父と母が何か話していて、それから母が何を思ったか、自分が着けていたカチューシャを父に着けようとした。

父も仏頂面をしてされるがままにしている。

頭の大きさが違うから、カチューシャをうんと広げて父の頭に着けようとした瞬間、母は手を滑らせた。

「パッチーン!」と大きな音を立てて、カチューシャが父のこめかみに直撃する。

父が珍しく「いてっ!」と声を上げ、母はその様子に慌てて父のこめかみを撫でながら謝る。

それからすぐに、可笑しくてたまらない、という風に顔を真赤にして笑い出した。

父もつられて、怒ったような顔をしながら吹き出す。

「笑い事じゃない」と言いながら、二人は暫く笑い合った。

そうした様子を見る事が子供に与える安心感のようなものは、計り知れない。

その瞬間、満たされて、そこに居られる事が本当に幸せだった。

今もはっきりと憶えている。

尤も、滅多にそんな出来事は起こらなかったけれど。

 

 

今日、父の額に手を当ててお別れをした。

吃驚するほど冷たくて、硬い額だった。

あの世、と呼ばれるものがもしもあるのなら、無事に母の処へ行けただろうか。

母はどんな顔で出迎えるだろう。

きっといつもの様に笑って、小走りに駆け寄る。

父は照れ隠しにわざとゆっくりと歩を進め、軽く敬礼をするみたいに額に手を当て、「よう。」と言う。

 

どうか、安らかに。

あなた達の息子で、幸せでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

慣れ

 

今週のお題「ちょっとコワい話」

 

久し振りに覗いたら、Blogのお題、というのが目に入って、それが「ちょっとコワい話」というので、暑気払いになるかどうか判らないけれど珍しく乗っかってみることにする。

 

まだ猫一匹と人一人で暮らしていた頃、ちょっとした事情があって、以前に鍼灸院として使われていた旧い建物に棲んだ事があった。

二階建てで、診療ベッドを幾つも並べてカーテンで仕切っていた診察室の名残がそのままにあって、元々住居として建てられたものではなかったから住まいとして使うにはいくらかの工夫が必用だったけれど、広々としていて猫も一階と二階を自由に駆け回って快適そうにしていたので、僕としては何の不満も無かった。

しかしそれまで都内の息も詰まる様な狭いワンルームで暮らしていた所為か、急にがらんとした家で眠るのに不慣れで、越してすぐは寝付きが悪く、おかしな夢を見ることが度々あった。

眠っていると、二階にゆっくりと上がって来る階段の軋む音がして、ふわりとした白いワンピースを着て、髪を後ろでお団子にした白人の中年女性が現れて、僕のベッドの周りをふわふわと漂いながら、聞き覚えのない言葉で何かを盛んに耳許で囁く。

髪も肌も服も全体に白っぽくて、大柄ではないが幾分ふくよかな感じの人で、怖いというほどでもないのだけれど何を言っているのかさっぱり解らないし、どうにも場違いな感じでもあるし、兎に角距離が近いので気味は悪い。

起きてからも夢にしてははっきりとした印象が残っていて、つい先程までこの部屋に誰か居た、という感じがして奇妙な体験だった。

これはまあ夢見が悪かった、というだけのことであって、珍しくもない。

 

この建物にあった鍼灸院はすぐ近くに新築して移転していたのだが、時折以前の患者さんが間違えて訪ねて来てしまうことがあった。

そういう時は丁寧に移転先を案内してお引き取り願っていたのだけれど、暫くするとそれが明らかに診療時間外の時にも起こるようになった。

建付けの良くない古い建物な上に診療院によくある硝子扉だから、施錠をしていても外からドアを開けようとするとサッシが大きな音を立ててギイッと鳴る。

その上二階の雨戸も振動でぼわんぼわんと大きな音を立てるので、すぐに気付いて玄関へ出向くのだけど、つい今しがたまで鳴っていたドアを開けると、もう誰も居ない。

それは夜半だったり、明方のまだ薄暗い時間帯によく起こった。

ドアにでかでかと移転先の張り紙もしていたし、病院でも案内を出していたから、そのうちそうした間違いは殆ど起こらなくなったのだけれど、それでも時折間違えて来てしまうのはかなり御高齢な患者さんが多く、そうした患者さんの中には暫くお見掛けしないなと思っていたら、何時の間にかお亡くなりになっていたということも然程珍しくはない、という話を聞いた。

 

矢張りこの鍼灸院の関係者から聞いた話でこんなエピソードがある。

ある常連患者さんで、一階の待合に座る場所もない程混んでいる時に、治療が必用な状態の高齢女性を立たせたまま長く待たせるのを気の毒に思った施術師が、二階なら席が空いているからどうぞ、と二階へ通そうとするのだけれど、どんなに勧めても頑なにそれを拒むので、不思議に思って理由を訊ねると、二階はいつも、もう居なくなってしまった筈の古い常連患者さんたちで満席だから、と答えたのだそうだ。

 

時間に縛られず昼となく夜となく訪ねて来てはドアを鳴らしていたのは、一体誰だったのか、何時の間にか、ドアが軋むのも雨戸が鳴るのにも、階段がゆっくりとした足取りで踏みしめられるように音を立てるのにも慣れ、一々出向いて様子を窺う様なこともしなくなった。

 

慣れというのは怖いもので、人は大抵の事に慣れてしまう。

何度も繰り返し体験するうち、感度が鈍くなるというのか、麻痺するというのか、兎に角一々反応しなくなる。

この頃この家で使っていたのは、当時としてもけして新しくはないブラウン管のテレビで、大型のスピーカーを搭載しているのを売りにした、無駄にでかくて重たく黒い、薄くて軽い物ばかりが持て囃される中で取り残された、「時代の遺物」だった。

音はそれなりに良かったので映画を観るのにもゲームをするのにも都合が良かったが、これがここへ越してからというもの、段々に狂い始めた。

狂う、という表現がぴったりの壊れ方で、番組の途中でもゲームの途中でも、いいところでお構いなしに勝手にチャンネルが変わる、ボリュームが勝手に大きくなったり小さくなったり、挙げ句の果てには勝手に切れて無反応になる。

諦めてリモコンを投げ出すと勝手に電源が入る、といった調子だ。

真夜中に突然電源が入って砂嵐を映し出し、ザーザーという音量を最大に上げて叩き起こされた時は流石に驚いて固まったが、暫くするとまた勝手に切れて、部屋は何事もなかったように静まり返った。

来客のある時も点いたり消えたり勝手にチャンネルを変えられたりが頻発するので、何時の間にかそれが当たり前になって、客も僕ももうそういうものだと諦めてそのままにしていた。

慣れた客になると、最初は気味悪がっていた者もゲームの途中でチャンネルが変わるので、テレビに向かって悪態をつくぐらいにまでなった。

何しろ買い換えるお金もなかったし、全く使えないという訳でもないのでついそのままに過ごしたけれど、今になって思い出すとちょっとしたB級ホラー映画の演出みたいなことが、日常茶飯事に起こっていた。

 

今にして思えば、どうして当時もっと怖いと感じなかったのだろう。

その都度怖いとは思った筈だが、こうして事象を書き留めると、もっと怯えてもよさそうなものだという気がする。

 

猫が居たからだろうか。

細くて小さくて、抱くと本当に驚くほどに軽い猫だったが、いつも凛として白く輝いていた。

常に堂々として、主の様に振る舞っていた。

実際、そうだったかも知れない。

どんな暗闇でも手を伸ばせば、柔らかで温かいその身体に触れる事が出来た。

いつも傍に居て、指先にその温もりや喉を鳴らすのが伝わるだけで、殆どのことが、取るに足らない些細なこと、と思えた。

 

触れることが叶わなくなってから、もう数年が過ぎた。

今も恋しく思わない日はない。

どんなことにも慣れるのに、手を伸ばしてもそこに居ないことに、暗闇で喉を鳴らす音が聞こえて来ないのにも、まだ慣れない。

 

猫も盆には、戻ればいい。

 

f:id:uronnaneko:20161023234639j:plain

 

 

 

 

 

 

記憶

日が長くなったので、時折保育園の帰りに公園へ寄り道をする。

ブランコを押していたら長男が唐突にこう言った。

「ねーねー、ちーくんが赤ちゃんだった時、ちーくんのこと、おばあちゃん抱っこしたよねー?」

「したよ。どうして?」

「おばあちゃんもう来ないの?」

「うーん、おばあちゃん遠くへ行っちゃったからねえ。」

「何処行った?」

「天国に行っちゃった。」

「天国ってなに?」

それで言葉に詰まった。

安易に「天国」などと言ってしまったけれど、それがどんな処なのか、あるのかどうかさえよく解らない。

「おばあちゃんはアイアンマンみたいにびゅーんてお空に飛んでっちゃったから、もうなかなか遊びには来れないけど、ちーくんの事が大好きなのはちっとも変わらないから、憶えててあげてね。」

「うん。」

長男の大好きなアイアンマンで誤魔化したみたいな気もするけれど、

もうこんな会話が出来るようになったのだな、という感慨と、こうした時にどう説明するか、というこちらの準備が全く出来ていないのに気付いて少し焦る。

こうした時に避けたりせず、子に解る言葉で死についてもきちんと話しておきたいのだけれど、どんな風に言えば良いだろう。

ブランコに揺られながら、四歳なりに何か祖母を思い起こす事があったのか、もう随分顔を見ないな、どうしてかな、とでも思ったのだろうか。

本当に抱かれた記憶があるのか、母が生まれたばかりの長男を抱いている写真を見て、僕が以前にそう話して聞かせたのを憶えているのか。

 

 

 

 

 

突然の訪問

大学時代の友人から連絡があり、嬉しい突然の訪問。

出張の為に移動中なのだけど、新幹線を途中下車して寄ってくれるとのこと。

会うのはもう随分と久し振りで、長男が生まれて少ししてから一度、上京した折に会ったきりだから、もう四年近くも会っていなかったことになる。

僕が結婚して引っ越しをする前は御近所だったこともあり、しょっちゅう会って取り留めのない話をしたりして一緒に過ごした。

友人の仕事帰りに待ち合わせてそのまま食事に出掛けたり、或いは仕事中に抜け出して珈琲を飲んだり。

時々は晩に珈琲道具一式を持って食後の一杯を淹れに来てくれたりもした。

ポットに入れられた熱々の旨い珈琲がポストに投函されていることさえあり、そんな時は「珈琲入れといたよ」とメールが入る。

今改めて自分の日記内を「ポスト」というキーワードで検索してみたら、この友人から珈琲だけでなく、茶菓子やフルーツ類等、ありとあらゆる物がポストに届いていたのを思い出した。

 

いつも突然の訪問で、友人は少し申し訳なさそうにするのだけれど、一度も迷惑に思ったことはない。

そればかりかこの「突然の訪問」が暫くないと、何処となく物足りないというか、寂しかったものだ。

僕は友人が多い方ではないし、人付き合いもけして良くはない。

連絡をまめに取ったりもしないけれど、数少ない友人達は今もこうして時々は訪ねてくれるし、会えば数年のブランクなどまるで嘘のように、少しも変わらず一緒に過ごす時間を愉しむ事が出来る。

とても恵まれているのだと思う。

 

久し振りに訪ねてくれた友人の前には、あっという間に積み木やおもちゃの山が出来た。

子供達が代わる代わる絵本やお気に入りのおもちゃを持ってきては友人の前に積み上げて行く。

膝の間に割って入って甘える。

下の子などは勿論初対面の筈なのに、遠慮会釈無く甘えていた。

 

僅かな時間だったけれど、とても嬉しい時間だった。

互いに、時には大切な人を見送らねばならない歳になった事を嘆いたりもしたけれど、互いが元気で居るうちは、多分この先も、何年経っても、こうして共に過ごす時間はこれまでと変わらず、愉しいものになるだろう、と確信する。

老いて尚、笑い合う事の出来るだろう友が居る事が、嬉しく誇らしい。

 

 

 

 

黄金の日々

先月の初め頃だったか、或いはもう少し前か。

長男が園で貰って来た風邪にやられて、寝込んだ。

咳が酷かった以外は熱もそれ程には上がらず、

とは言うものの40度代迄は行かずにぎりぎり踏み留まる、という感じではあったのだけれど。

横になると酷く咳き込んで眠れない様子なので、何度も起き出してはクッション等を積み上げて姿勢を整え、上体を高くしてまた少し眠る、というような数日を過ごすうち、疲れが溜まったのか会社で別なのを貰ったか、今度は妻が咳き込み始めた。

一緒に倒れられては困るので、いつもよりはあれこれと動き回るうちに、長男は何とか快方に向かい、それに気を許した所為か、今度は僕が咳き込み始めた。

大人の咳はなかなか治まらず、時折家のあちこちで顔を伏せてげふげふやっているうちに、とうとう次男に感染った。

最初期は大して熱も出ずに洟水と咳が少し、で治まって行くかに見えた。

大事を取って数日休ませ、二人ともすっかり元気になったと思って保育園へ。

迎えに行くと珍しく次男が大泣きしており、保育士さんが「熱が9度近くある」と言う。

慌てて連れ帰って、それからはまた二人とも園を休ませてずっと家で過ごす。

どちらかを置いて片方だけを園へ送り迎えする、という事がまだ出来ない。

だからどちらか一方が体調を崩せば一蓮托生、二人とも家に引き篭もらせなければならなくなる。

 

そんな風に、あっという間に一ヶ月が過ぎてしまう。

それが年に何度も繰り返される。

先の予定など立つ筈もない。

徹底した健康管理、大嫌いな根性論を振り翳して踏み留まろうと足掻いても、僕も妻も、結局は倒れる。

そうしてそんな時に頼る事の出来る人は、もう居ない。

あれこれと気遣って支えてくれた人は、もう居ない。

だからやっぱり、大嫌いな根性論に縋って、何とか踏み留まって立っていようと足掻くしかない。

 

ゴールデン・ウィークに入ったら、何も出来なかった結婚記念日の代わりに、子を預けて偶には二人だけで美味しい物でも食べに行こう、と算段していたのだけれど、その頃には僕の体調が最悪で、一向に治まる様子のない咳と微熱にじわじわと削り取られて、食事も喉を通らなくなっていた。

元々世間様が楽しくしている時期には家に引き篭もって静かに過ごす事の多い二人だけれど、一度も外に出られず、何一つ楽しい出来事もなく臥せっているうちに休日が終わっていくのには、流石に気持ちが鬱々とした。

二人きりで出掛けるのなんて、何時また出来るだろう。

来年か、再来年か、或いはもっと先か。

 

それでも休み明けの最後の土日に来客があり、土曜は妻が友人と遊びに出掛け、日曜はいつも子供達にたくさんの贈り物を惜しみなく与えてくれる友人が遊びに来てくれて、公園で沢山遊んで貰って嬉しそうなのを見て、随分と気持ちが救われた。

この友人はいつも本当に沢山の贈り物をしてくれる。

こんな事、身内でさえもしてくれたことがないというほどの、見返りを求めない贈り物。

御本人曰く、「趣味みたいなものだから」とは言うものの、こんなに甘えてしまっていいものかと恐縮しながら、ついつい充分なお返しも出来ぬままに甘えてしまっている。

 

 次男が二度に渡って発熱を繰り返したのは、軽い中耳炎を併発していたからであった。

投薬を続けて、今は快方へ向かっている。