アボカドの唄、後日談

 

urone.hatenablog.com

 

 後日、妻が「歓喜の歌」の歌詞を調べて教えてくれた。

 

花さく丘べに いこえる友よ
吹く風さわやか みなぎるひざし
こころは楽しく しあわせあふれ
ひびくは われらのよろこびの歌

(岩佐東一郎作詞・ベートーベン作曲/文部省唱歌「よろこびの歌」)[参照サイト] 

 

薄暗い部屋の片隅で誰からも気に掛けられず、辛うじて生き存えてきたアボカドが、初めて陽のあたる場所に出て、そよ風に吹かれた時の心情を表すのに、あまりにも相応しい内容で、もうこれはあのハミングはこのアボカドの仕業に違いない、と二人で頷きあった。

 

 

 

 

 

歓喜の歌

子が早くに寝静まった日には、僕の部屋で妻と映画を観る。

昨日も二本ほど観終え、それぞれの部屋に別れてパソコンに向かった。

部屋を暗くしたまま暫くパソコンの画面を見ていると、ごく微かな音量でハミングが聴こえて来るのに気付いた。

知らずにブラウザで何か再生していたかと思って確認してみたが、そうではない。

どこか懐かしい感じのする、聞き覚えのあるメロディだった。

これは何の曲だったろう…とその声に耳を澄ませた途端、歌声は僕のすぐ後ろに迫って来た。

微かな吐息を感じるほど近く。

ほんの僅かな間だったが、まるで後ろから肩に手を掛け、耳許で囁かれているように感じた。

今にも首筋に長い髪先が触れそうな気さえする。

驚いて振り向くと同時に、歌声はかき消すように止まった。

高く澄んだ女性の声で、ゆっくりとした静かな歩調で、心地よい夜風にあたりながら散歩を愉しんでいるような、そんな歌い方だった。

今も耳に残っている。

驚いて思わず振り向いてしまったけれど、そうせずにもう暫く聴いていたかったと思わせるくらい、柔らかで耳触りの好い声だった。

妻の部屋へ行って、今鼻歌を歌っていなかった?こんな感じのメロディーなんだけど…と訊ねると、それはベートーベンの第九、歓喜の歌だと言う。

不思議と怖いとか薄気味悪いとかは少しも思わず、ただいつまでも耳に残る歌声が気になって、少しでも近いものが聴けないかと動画サイト等で探してみたが、どれも違う。

探そうとすればするほどあの歌声が遠退くようで、探すのはやめにした。

 

次の日になって、ベランダに出て一服した後、部屋へ戻ろうと振り向くと、暖かな日差しを浴びて、アボカドが葉を揺らしている。

そのアボカドは、食べ終わったのを僕が面白半分に水栽培し始めたもので、日の当たらないキッチンの片隅でひょろひょろと茎を伸ばし、弱々しく潮垂れていたのを、妻が気の毒がって、昨日鉢に植え替えをしてベランダに出したのだった。

 

アボカドはか細いながらも、初めて浴びるお日様の下で、いつになく葉をぴんと広げ、ゆらゆらと風に揺れながら歓喜の歌」をハミングしているように、僕には見えた。

 

 

 


上の子も下の子も、小さな子は皆そういうものなのだろう、高い熱をよく出す。
判ってはいても、小さな身体を震わせて泣き、荒い息をして苦しそうにしているのを見ると、何とかならないものか、代わってやれたら、と考えてしまう。
何としても適切に対処したいから調べずにいられないし調べれば調べるほど不安材料も増える。
それでも知らずにいる事ほど怖い事はないと思うから、今日もやっぱり目をしょぼつかせて調べ物をしている。


数日前に保育園で蚊に刺されて耳が倍ほどの大きさに腫れたとかで、耳に冷感シートを貼って帰って来た。
耳の腫れは一晩で治まり、偶には大きな耳も可愛いね、等と呑気な事を言っていたのだけれど、次の日になって背中に大きな浮腫が現れた。
それから急に39度を超える高熱が出て、浮腫は場所を変え次々と現れ、咳が酷くなって少しも眠れない様子。
日曜だったので診療して貰える病院を探して駆け込み、気管支炎を起こしているとの診断でネブライザーを借りる。
熱が高くなる夜間を処方された解熱剤で何とか凌いでいるが、なかなか良くならない。
頼みの綱のネブライザーは驚くべき爆音で、一番使いたい深夜には近所迷惑でとても電源を入れられない。
深夜から明方迄が一番咳が酷くなるというのに。


熱で口が不味くなるのだろう、林檎を摩り下ろしても凍らせた葡萄を口に入れてもすぐに吐き出してしまう。
固形物をろくに摂っていないから流石に腹は減るようで、この際欲しがる物なら何でも、と求められるままに動物ビスケットを手渡してみたが、口に入れるとやっぱり悲しそうな顔で吐き出す。
ふらふらと起き出して来て朦朧とした表情で妻の脚にしがみついて窮状を訴える様子が気の毒でならない。


子の様子を見ていて色々と思い出す事があった。
僕もよく高い熱を出す子供だった。
酷い熱が何日も下がらなかった時の事。
口に入る物は全て紙屑のようなくしゃくしゃとした食感に感じ、味は殆ど判らなかった。
しまいには水を飲んでも吐くようになり、今にして思えば酷い脱水症状が起きていたのだろう、シンプルだった筈の見慣れた照明器具が何時の間にか豪華絢爛なシャンデリアに変わっていて、不安げに見守る母は僕を取り囲んでずらりと並んでおり、「どれが本当のお母さん?」と訊ねていっそう母を不安がらせた。
折角用意して貰った摩り下ろし林檎も、まるで口にゴミを放り込まれたみたいに感じてすぐ吐き出してしまったように記憶している。
母があれこれと手を尽くしてくれて、小さな葡萄を一粒づつ唇の上で搾ってくれた。
小さな緑色した宝石から落ちてくる雫はそれまで口にしたどんなものよりも甘く冷たく、乾き切った喉に心地好かった。
大袈裟でなく、その数滴があったから生き延びたのだ、と思う。
それまでもそれからも、僕は何度もそのような状態になったから、親の身になってみれば随分酷な事だった。
これも自分が親になって思い知った事の一つだ。


僕は本当に心配ばかり掛けていた。
いい歳になってからも色々と心配を掛け通しで、多分それは母が最期を迎える瞬間まで続いたのだろう。
母は強い人だったけれど、強くならなければならなかったのだ、と今にして思う。


僕と妻も、やはりそのようにして強くならなければ。


母が搾ってくれた葡萄の味を、今も憶えている。
葡萄の実は矢張り食べられなくて、勿体無いね、と笑いながら母はそれを時々自分の口に運んでいた。
葡萄は実よりも皮により近い部分の果汁が一番甘い。


寄り添って、不安がらせないように「大丈夫だよ」と笑い掛けてやり、あの時の葡萄の一滴のように、僕も子にしてやれることを何か見つけ出せる筈だ。
「子供はね、親にして貰った事は、人にもしてやれるようになるんだよ」という母の言葉を思い出す。








 


もう随分とましになったのだけれど、先々週だったか、酷く腰を傷めた。
子供達を保育園へ迎えに行き、金曜だったから抱え切れないほどの荷物を自転車のハンドルに掛け、前と後ろに子を乗せてまるで曲芸師の一家にでもなったような緊張感で、慎重に、でもふらつかないような速度を保ちつつ、なるべく車通り人通りの少ない道を選んで遠回りして帰る。
帰ってすぐに子供達の手を洗いおむつを替えて水を飲ませ、腹を空かせて騒ぎ出すのを見計らってそれぞれの口にパンなどを放り込み、下の子が洟を垂らしているのに気付いてテッシュを手に取った。
テッシュは子が悪戯で全部箱から出してしまっていたので袋に入れてあった。
切れ端がふわふわと床に落ちる。
子が拾って口にしないとも限らないのですぐに腰を折って拾った。
背中を伸ばそうとした瞬間、背中に刺されたような痛みが走って、そのまま倒れ込んでしまった。
暫くは息をまともにするのも困難なほど痛くて、床に伏せたまま(先にテレビを点けておいて良かったな…)とか、(子供達に少し食べさせた後で良かった…)などと考えていた。
後一時間か二時間ほどで妻が帰宅する。
子供達はきっとそれまで静かにテレビを観ていてくれるだろう。


それから数日、立ち上がる事はおろか、寝返りを打つことさえ出来なかった。
トイレは、初日の晩に四時間掛けて洗面所まで這って行き、それでも僅かな段差が越えられず、トイレにもバスルームにも入る事が出来なかった。
洗面所の床に倒れたまま更に一二時間懊悩した挙句、恥を忍んでペットボトルに用を足した。
この調子では明日もきっと立ち上がれないだろうと考えて、尿瓶を注文してもらう。
これまでも何度か酷いぎっくり腰の経験はあるけれど、トイレには這ってでも行って、何とか人の手を借りずに用を足していたから、今度のは格別に酷い。
尿瓶は次の日すぐに届いたけれど、いざ使おうとすると巧くいかない。
もう諦めて使ってしまおう、と気持ちの上では覚悟を決めている筈なのに、身体がそれを拒絶する。
内なる声が、(どうなってもいいから自分でトイレに行け)、という。
チィさんでさえ、あの小さな痩せた身体でふらつきながらも、死ぬ間際まで自分で用を足したではないか。
二日目も矢張り何時間も掛けて床を這った。
芋虫の方がまだ早く進むだろう、というような速度でしか動けないから、洗面所へ着く頃には汗だくで息も絶え絶え、床に頬をつけて一息ついていると、何だか自分の姿が滑稽に思えてくる。
しかしここで笑い出したら気が遠くなるほど痛いだろうから、出来るだけ気持ちをニュートラルに保つ。
どんなに痛くともぎっくり腰で死んだという話はあまり聞かない。
何としてでも自分でトイレに行く!と決めて、アルミのバケツをひっくり返し、それを支えにして少しづつ姿勢を起こして行く。
体勢を変えようとする度背中が硬直するような強い痛みが襲って来るのを、必死にバケツにしがみついて痛みの発作が去るのを待つ。
もうこれ以上もたついていたら漏らしてしまう、という段になって、やっとこ意地で立ち上がって用を足せたが、痛いのと気が抜けたのとで目の前が真っ白になった。
それでも幾許かの矜持を取り戻し、用も足せたことで気分がましになったけれど、もう暫くは子の送り迎えも無理だろうし、おむつを替えてやる事も、食事を用意してやる事も出来ない。
どれくらいの時間で元通りになるのだろうかと不安になる。
妻に数日仕事を休んで貰わなくてはならないし、何をするのにも予め手順を決めて準備しておかなくてはならない。
次の日もその次の日も、トイレへ行く以外は殆ど身動ぎもせず、息を殺して過ごした。
腹も減らず、喉も然程渇かない。
何処かが痛いというだけでこんなに腹が減らぬものだとも、トイレへ行く回数が減らせるものだとも思わなかった。
何度かは兄や友人に頼んで、保育園へ迎えに行ってもらった。
硬いマットレスを買ってきてもらった。
四日目にトイレに立った時、こんなにも苦労して立ったのだからと、立ったついでに出来る事は全てしてしまいたくて、歯を磨き、シャワーを浴びた。
洗えるのは手の届く範囲だけで、しかも壁に凭れて何とか立っている状態だからかなり限定されるけれど、ここまで来てやっと何とか自分が芋虫ではなかったと思い出せた。
ずっと以前に使っていた松葉杖をついて妻の肩を借り、少しの間なら食卓に着いて一緒に食事をする事も出来るようになったし、一週間ほどで杖がなくとも立てるようになった。
僅かな間に片脚で立って、ゴムの緩いトランクス限定だけれど自分で着替える技を編み出したし、出来るだけ短い時間で痛みの発作をやり過ごすコツも学んだ。
不自由なりに色々と適応していくのが面白い。
もう二度と身動きする事が叶わぬのではないかというような気持ちにさせられるような、打ちのめされるような痛みだったけれど、助けてくれる人たちが居てくれたおかげで、何とかやり過ごす事が出来た。
鎮痛剤がたっぷりと手許にあった事も心強かった。


出来ればもう二度と体験したくないけれど、本当に突然で、全く予測する事は出来なかったし、危うい感じすら抱いていなかった。
きっと他の災難もこんな風にやって来るのだろうな、などと考えながら過ごした。
床に這っている時にしか気付かなかったであろう事柄もあるし、貴重な体験ではあった。


もう二度と御免だけれど。




 

僕の誕生日に長男が三歳児検診に行って骨折して帰る、の巻


またまた色々まとめて書いた為にちっともまとまらない日記。


もう何度目か正確なところを忘れてしまったし知りたくもない僕の誕生日。
丁度この日が長男の三歳児検診で、妻と子が保健所迄出掛けたのだけれど、
検診に出掛けた筈が脛をパッキリ折られて痛々しいギプス姿で帰宅した。
遊びながら順番待ちをしている間に、他所のお子さんが台の上から脚の上に飛び降りたのらしい。
その場では折れている事が分からず、相手の連絡先等も確認せず別れてしまったので、
病院側の強い勧めもあって会場であった保健所に一応連絡を入れ、事情を説明したものの
予想通り何の対処も反応も得られず。
個人情報が絡むので勿論その様な対応が為されるだろうと思ってはいたけれど、
最初から責任の所在を他所へ他所へ、というのがあからさまで辟易とした。
結果同じ対応でも、もう少し誠意の片鱗の見えるような、
或いは僅かに香るだけでも、随分と気持ちの有り様が異なるのだけど、
非常にお粗末で、「お役所のすることだから…」「ぁぁ…」
という会話で全てが語り尽くせてしまうのは何とも残念。
状況を詳しく聞いてみても避けようのない事故で、勿論相手方に悪意のある筈もなく、
誰も責める気はないのだけど、代わる代わる対応を押し付けあって
必死に顔を背ける保健所の職員達の様が浅ましくて、気持ちを暗くする。
何度も見回りをして現場の状況は把握していたという課長は、
多くの子が泣いたり叫んでいたりしていた声が一切耳に入っておらず、
受付の仕事に集中していましたので…と言葉を濁すし、
一件一件当たって当事者を確認致しますと言ってしまった後で、
後で不味い対応をした事に気付いて部下に折り返し連絡させ、
個人情報を盾にとって何の御協力も致しかねますと言わせる。
見苦しい。
誰かに責を負わせたいのではない。
治療費を請求したいのでもない。
今日こんな出来事がありました。子の為に、互いに気を付けていきましょう、
という話が当事者同士で伝わりさえすればそれで良かったのだ。
うちに責任はない、と逃げ出す前に、もう少し人間らしい会話がしたかった。
そもそも少しも責める気持ちのないところに、余りにも不誠実で逃げ腰な対応をされると
何だか何処か責めなきゃいけないような気持ちになってしまう。


非生産的でストレスになるだけなので、愚痴はここに吐き出したので終いにしよう。
元気一杯の三歳児が狭い場所に大勢集まれば、どうしたって避け難い事故は起こりうる。
これからはもっと気を引き締めて精一杯勘を働かせ、
避けられるトラブルは最大限の努力をもって回避しよう。


それにしても明日からの子の入浴等、日常生活の工夫をどうしよう。
色々と解らない事だらけだ。
アスピリンロキソニン等との因果関係が懸念されるライ症候群のリスク回避からか、
鎮痛剤は処方されず、骨折箇所の痛みでよく眠る事が出来ずに数分おきに起きてしまう子を宥めながら、
この日記を書いている。


こんな事のあった時、以前なら母に、極力何でもない風を装って
「今日こんな事があってね」と話したろう。
話して何がどうなるという訳でもないが、
母はきっと一緒になって怒ったり(時には僕より激しく)
一緒に悲しんだり悔しがったりしてくれたろう。
そうしていつも僕の妻や子供たちを気遣ってくれた。
それがどんなにありがたかったか、今になって染み染みと知る。
随分と甘えさせて貰った。
妻に、「甘えられるうちに甘えておいた方がいいよ。」と言った。
妻は「うん。」と静かに頷いた。



 
 

寝かし付け


少し前にiMacが壊れた。
突然モニターがギザギザした縞模様になってそれっきり。
修理に出してモニターの交換で事なきを得たのだけど、手痛い出費。
そして修理から戻るまでの間、次男の寝かし付けに非常に難儀した。
と言うのも、長男の時もそうだったけれど、膝に置いたクッションの上に抱いてゆっくり揺らしながら、
或いは激しく貧乏揺すりしながらyoutubeで作った寝かし付け用リストを流す、
という寝かし付けパターンに頼り切っていたからだ。
これが驚くほどスムーズに機能して、よちよち歩きを始めた次男が、
眠くなると自分でクッションや枕を引き摺って僕のところへ来る。
もう眠いから早く膝に乗せて揺らせ、という訳だ。
彼らは流す曲にも細かく注文を付ける。
始めは少しの間モニターを眺めているから、静止画でなく動画の流れる曲。


静止画だったり最初からスロー過ぎると身を捩って抗議する。
気に入ればモニターを指差して静かに聴き入る。
段々とテンポはスローに、高音過ぎるピアノや女声が使われた曲は後半は控え目にして、
低く長く響く男声合唱等を…といった具合。

大体この黄金パターンで寝かし付けてきたので、パソコンが手許にないと、
どうして今日は膝抱きでいつもの曲流さないの?と言いたげに泣く。
だからパソコンが戻って来て、本当にほっとした。
HDのデータは初期化される可能性があると聞いていたからほぼ諦めていたのだけど、
モニター交換のみで済んだ為に何も失われなかった。
どこかで「失くならない物はない、壊れない物もない。」と思っているので、
いつもわりと簡単に諦めてしまうのだけど、
子の写真等のデータが消えてしまわなかったのは矢張り嬉しい。




  

あれから何度も備忘録を更新しようとしてはここを訪れ、
キーボードに手を置いて長いこと固まった挙句、何もせずに閉じる、という事を繰り返している。
去年のうちに書き留めておきたい事がいくつもあった筈なのに、
時間が経ち過ぎていて、その時の気持ちを思い起こしてみようとしても歪になってしまって、
もう元のまま書き記す事は出来ない。
まとまらない考えが幾つも浮かんで来ては過ぎ去ってゆくので、
少しでも整理して言葉にしようとすると、もういけない。
一言も言葉が出て来ない。
元々自分の為の備忘録として書き留めているのだから、
忘れてしまわない為の記号として機能しさえすればいいのだ。
そう気付いて、まとまらないままに書き連ねて更新する事にした。
書く事で少しづつ整理されていくこともあるのだから。


暮れに子供たちが風邪を拗らせて長く寝込み、
その看病に追われるうちに僕も妻も同じ風邪に罹って
家族揃って何だかはっきりとしない体調のままクリスマスが過ぎ、
すっかり草臥れてしまって、気が付けば年明けを迎えていた。
そんなだから、うちにも正月があったのだかどうだか、正直なところよく解らないでいる。
ひっそりと篭もり切ったまま、肩を寄せ合って静かにやり過ごした。
去年まではクリスマスだの正月だの、季節折々の行事には
少しは孫にそれらしい事をしてやりたいと言って、母が色々と気を配ってくれた。
そんな事いいよいいよ、と言いながらも、僕たちはその好意に甘えさせて貰った。


今年のクリスマスは皆寝込んでいて何も出来なかったけれど、子供たちには親戚や友人が贈り物をしてくれた。
元旦には妻が、ささやかながら豆を甘く煮て、他にも出来るものを少しだけ、と言って、初めてのお節料理を拵えた。
「季節折々に子供たちに少しでもそれらしい事を」僕も妻もそう思ったのは、
生前母がよくそう言っていたからだろう。


母が亡くなってから、母の声をよく聞く。
勿論耳に聞こえる訳ではないけれど、頭の中で声のすることがある。
「また苛ついた顔してるよ、よくないよ、気をつけなさい」
僕は度々母にそう言われた。
僕はわりとポーカーフェイスに自信があり、他人に気持ちを悟られる事は殆どない。
多少苛々していようが疲れていようが、我慢出来る範囲内なら一人になるまでは顔に出さないよう、細心の注意を払う。
しかし母だけは、どんなに平静を装っていても気付いてしまう。
時々は僕が自覚するよりも早く、それを指摘した。
言われてみて、「そうかな、そんな事ないと思うけどな」
咄嗟にそう答えてから、随分遅れて自分の気持ちに思い当たる。
時々その母の声が、頭の中に小さく囁いて、あ、今自分はどんな顔でいるかな、と考える。


そうやって、今も僕の中に母は生きている。
母が気遣ってくれたことや、その考え方、感じ方が、自分の考えや感じ方とはまた少し異なる立ち位置から、
時々肩を叩いて振り向かせ、耳元で囁いて立ち止まらせ、一人では気付けなかったかも知れない事を教えてくれる。
その事で、人の生や死についての感じ方、考え方が大きく変わった。


母が亡くなってから、僕は一度も涙を流していない。
男が泣いていいのは親の死に目だけ、そう言われて育った。
大っぴらに泣いていい筈のその日、僕はチャックを閉め忘れたまま葬儀場へ向かい、火葬場でその事に気付くと
「こりゃあいい別れの挨拶しちゃったな〜」と甥っ子たちに冗談めかして言い、笑いさえした。
泣けなかった。
目を逸らさず最期を看取り、棺に手を添えたまま家族で唯一人、葬儀屋の車に乗り、
病院から母の自宅へ向かう車の中でも、涙が頬をつたうことはなかった。
何故だろう。
兄たちがそれぞれに目頭を押さえ、小さく肩を震わせているのを見て、(お前は何故泣いてないんだ)と不思議に思った。
自分のことがよく解らなくなった。
これが母から受け取る最後のメッセージになるのだ。
しっかり見届けて心に刻まなければ。
そう思って、そうしたつもりでいる。
それなのに、だ。


よく解らないままに数ヶ月が過ぎ、色々あって疲れ切った頃、初めて例の母の声を聞いた。
ハッとした。
少し疲れていて、苛々していて、それが顔色に出ているかも知れない。
それは傍に居る人たちを辛くさせるかも知れない。
たとえ態度に出さずとも、当たり散らしたりせずとも。
それからは折々、子を厳しく叱る事を窘め、妻に感謝せよと気付かせ、
子らにしてやるべきことを促し、諭し、鼓舞して、我らと共に在らんとす。
そうやって、生者が忘れてしまわない限り、死者は生き続ける。
そう思い至ると、これまで持ってきた死生観とは全く別な側面が見えてくる。
僕にも、僅かながら残していけるものはあるのかも知れない。


薬の手放せない身体になってから、死はより親しい存在となって語りかけてくる。
そのこと自体には、不思議と畏れはない。
しかしそれが家族にどう影響するかということは、不安を掻き立てる。
子らはまだ小さくて言葉で伝えることは難しいけれど、もし仮に今何か起きたとしても、
妻は僕がどう考えどう感じる人間だったか、子らに伝えてくれるだろう。
彼女なりの言葉、感じ方で。
それで満足だ。
この備忘録も、続けてさえいれば、いつか子供たちが僕を知る為の記号としてなら機能する日が来るかも知れない。
だから続ける価値は、きっとある。


あの日泣けなかったのは、僕が母の死をしっかりと受け止められていなかったからだろう。
目を逸らすまいとするあまり、本当に見据えるべきものを見失った。
今も、本当の意味で理解出来たとは思えない。
そとに流せなかった涙はうちに流れるというけれど、それを思い知るような気持ちでいる。
もっと自分の気持ちが片付いて、腑に落ちる日が来れば、或いは素直に泣けるのかも知れない。
そうしたらまた何か今とは違った場所に気持ちを落ち着けられて、
今のよく解らない、落ち着かないふらふらとした心持ちも、
片付くべき場所に収まるのかも知れない。


母が亡くなるとすぐに下の子はハイハイを始め、驚くような早さでつかまり立ちをし、
伝い歩きをし、最近では一人で立ち上がりさえする。
上の子は初七日を迎える前にはっきりと「おばあちゃんちいくー!」と言えるようになった。
あとほんの少しだけでも居てくれたら、と思わない日はない。
子らが話すのを聞いて欲しかった。立つのを見て欲しかった。
もう一度皆で食事がしたかった。
そこにはどんなにか楽しい、安らいだ時間があったろう。
それを思う度、今を愉しまねば、と。
誰もが明日を迎えられるわけではない。
見逃さず、僅かな出来事を感じ、歓びたい。
何もないことを喜び、日々を惜しんで暮らしたい。