上の子も下の子も、小さな子は皆そういうものなのだろう、高い熱をよく出す。
判ってはいても、小さな身体を震わせて泣き、荒い息をして苦しそうにしているのを見ると、何とかならないものか、代わってやれたら、と考えてしまう。
何としても適切に対処したいから調べずにいられないし調べれば調べるほど不安材料も増える。
それでも知らずにいる事ほど怖い事はないと思うから、今日もやっぱり目をしょぼつかせて調べ物をしている。


数日前に保育園で蚊に刺されて耳が倍ほどの大きさに腫れたとかで、耳に冷感シートを貼って帰って来た。
耳の腫れは一晩で治まり、偶には大きな耳も可愛いね、等と呑気な事を言っていたのだけれど、次の日になって背中に大きな浮腫が現れた。
それから急に39度を超える高熱が出て、浮腫は場所を変え次々と現れ、咳が酷くなって少しも眠れない様子。
日曜だったので診療して貰える病院を探して駆け込み、気管支炎を起こしているとの診断でネブライザーを借りる。
熱が高くなる夜間を処方された解熱剤で何とか凌いでいるが、なかなか良くならない。
頼みの綱のネブライザーは驚くべき爆音で、一番使いたい深夜には近所迷惑でとても電源を入れられない。
深夜から明方迄が一番咳が酷くなるというのに。


熱で口が不味くなるのだろう、林檎を摩り下ろしても凍らせた葡萄を口に入れてもすぐに吐き出してしまう。
固形物をろくに摂っていないから流石に腹は減るようで、この際欲しがる物なら何でも、と求められるままに動物ビスケットを手渡してみたが、口に入れるとやっぱり悲しそうな顔で吐き出す。
ふらふらと起き出して来て朦朧とした表情で妻の脚にしがみついて窮状を訴える様子が気の毒でならない。


子の様子を見ていて色々と思い出す事があった。
僕もよく高い熱を出す子供だった。
酷い熱が何日も下がらなかった時の事。
口に入る物は全て紙屑のようなくしゃくしゃとした食感に感じ、味は殆ど判らなかった。
しまいには水を飲んでも吐くようになり、今にして思えば酷い脱水症状が起きていたのだろう、シンプルだった筈の見慣れた照明器具が何時の間にか豪華絢爛なシャンデリアに変わっていて、不安げに見守る母は僕を取り囲んでずらりと並んでおり、「どれが本当のお母さん?」と訊ねていっそう母を不安がらせた。
折角用意して貰った摩り下ろし林檎も、まるで口にゴミを放り込まれたみたいに感じてすぐ吐き出してしまったように記憶している。
母があれこれと手を尽くしてくれて、小さな葡萄を一粒づつ唇の上で搾ってくれた。
小さな緑色した宝石から落ちてくる雫はそれまで口にしたどんなものよりも甘く冷たく、乾き切った喉に心地好かった。
大袈裟でなく、その数滴があったから生き延びたのだ、と思う。
それまでもそれからも、僕は何度もそのような状態になったから、親の身になってみれば随分酷な事だった。
これも自分が親になって思い知った事の一つだ。


僕は本当に心配ばかり掛けていた。
いい歳になってからも色々と心配を掛け通しで、多分それは母が最期を迎える瞬間まで続いたのだろう。
母は強い人だったけれど、強くならなければならなかったのだ、と今にして思う。


僕と妻も、やはりそのようにして強くならなければ。


母が搾ってくれた葡萄の味を、今も憶えている。
葡萄の実は矢張り食べられなくて、勿体無いね、と笑いながら母はそれを時々自分の口に運んでいた。
葡萄は実よりも皮により近い部分の果汁が一番甘い。


寄り添って、不安がらせないように「大丈夫だよ」と笑い掛けてやり、あの時の葡萄の一滴のように、僕も子にしてやれることを何か見つけ出せる筈だ。
「子供はね、親にして貰った事は、人にもしてやれるようになるんだよ」という母の言葉を思い出す。








 


もう随分とましになったのだけれど、先々週だったか、酷く腰を傷めた。
子供達を保育園へ迎えに行き、金曜だったから抱え切れないほどの荷物を自転車のハンドルに掛け、前と後ろに子を乗せてまるで曲芸師の一家にでもなったような緊張感で、慎重に、でもふらつかないような速度を保ちつつ、なるべく車通り人通りの少ない道を選んで遠回りして帰る。
帰ってすぐに子供達の手を洗いおむつを替えて水を飲ませ、腹を空かせて騒ぎ出すのを見計らってそれぞれの口にパンなどを放り込み、下の子が洟を垂らしているのに気付いてテッシュを手に取った。
テッシュは子が悪戯で全部箱から出してしまっていたので袋に入れてあった。
切れ端がふわふわと床に落ちる。
子が拾って口にしないとも限らないのですぐに腰を折って拾った。
背中を伸ばそうとした瞬間、背中に刺されたような痛みが走って、そのまま倒れ込んでしまった。
暫くは息をまともにするのも困難なほど痛くて、床に伏せたまま(先にテレビを点けておいて良かったな…)とか、(子供達に少し食べさせた後で良かった…)などと考えていた。
後一時間か二時間ほどで妻が帰宅する。
子供達はきっとそれまで静かにテレビを観ていてくれるだろう。


それから数日、立ち上がる事はおろか、寝返りを打つことさえ出来なかった。
トイレは、初日の晩に四時間掛けて洗面所まで這って行き、それでも僅かな段差が越えられず、トイレにもバスルームにも入る事が出来なかった。
洗面所の床に倒れたまま更に一二時間懊悩した挙句、恥を忍んでペットボトルに用を足した。
この調子では明日もきっと立ち上がれないだろうと考えて、尿瓶を注文してもらう。
これまでも何度か酷いぎっくり腰の経験はあるけれど、トイレには這ってでも行って、何とか人の手を借りずに用を足していたから、今度のは格別に酷い。
尿瓶は次の日すぐに届いたけれど、いざ使おうとすると巧くいかない。
もう諦めて使ってしまおう、と気持ちの上では覚悟を決めている筈なのに、身体がそれを拒絶する。
内なる声が、(どうなってもいいから自分でトイレに行け)、という。
チィさんでさえ、あの小さな痩せた身体でふらつきながらも、死ぬ間際まで自分で用を足したではないか。
二日目も矢張り何時間も掛けて床を這った。
芋虫の方がまだ早く進むだろう、というような速度でしか動けないから、洗面所へ着く頃には汗だくで息も絶え絶え、床に頬をつけて一息ついていると、何だか自分の姿が滑稽に思えてくる。
しかしここで笑い出したら気が遠くなるほど痛いだろうから、出来るだけ気持ちをニュートラルに保つ。
どんなに痛くともぎっくり腰で死んだという話はあまり聞かない。
何としてでも自分でトイレに行く!と決めて、アルミのバケツをひっくり返し、それを支えにして少しづつ姿勢を起こして行く。
体勢を変えようとする度背中が硬直するような強い痛みが襲って来るのを、必死にバケツにしがみついて痛みの発作が去るのを待つ。
もうこれ以上もたついていたら漏らしてしまう、という段になって、やっとこ意地で立ち上がって用を足せたが、痛いのと気が抜けたのとで目の前が真っ白になった。
それでも幾許かの矜持を取り戻し、用も足せたことで気分がましになったけれど、もう暫くは子の送り迎えも無理だろうし、おむつを替えてやる事も、食事を用意してやる事も出来ない。
どれくらいの時間で元通りになるのだろうかと不安になる。
妻に数日仕事を休んで貰わなくてはならないし、何をするのにも予め手順を決めて準備しておかなくてはならない。
次の日もその次の日も、トイレへ行く以外は殆ど身動ぎもせず、息を殺して過ごした。
腹も減らず、喉も然程渇かない。
何処かが痛いというだけでこんなに腹が減らぬものだとも、トイレへ行く回数が減らせるものだとも思わなかった。
何度かは兄や友人に頼んで、保育園へ迎えに行ってもらった。
硬いマットレスを買ってきてもらった。
四日目にトイレに立った時、こんなにも苦労して立ったのだからと、立ったついでに出来る事は全てしてしまいたくて、歯を磨き、シャワーを浴びた。
洗えるのは手の届く範囲だけで、しかも壁に凭れて何とか立っている状態だからかなり限定されるけれど、ここまで来てやっと何とか自分が芋虫ではなかったと思い出せた。
ずっと以前に使っていた松葉杖をついて妻の肩を借り、少しの間なら食卓に着いて一緒に食事をする事も出来るようになったし、一週間ほどで杖がなくとも立てるようになった。
僅かな間に片脚で立って、ゴムの緩いトランクス限定だけれど自分で着替える技を編み出したし、出来るだけ短い時間で痛みの発作をやり過ごすコツも学んだ。
不自由なりに色々と適応していくのが面白い。
もう二度と身動きする事が叶わぬのではないかというような気持ちにさせられるような、打ちのめされるような痛みだったけれど、助けてくれる人たちが居てくれたおかげで、何とかやり過ごす事が出来た。
鎮痛剤がたっぷりと手許にあった事も心強かった。


出来ればもう二度と体験したくないけれど、本当に突然で、全く予測する事は出来なかったし、危うい感じすら抱いていなかった。
きっと他の災難もこんな風にやって来るのだろうな、などと考えながら過ごした。
床に這っている時にしか気付かなかったであろう事柄もあるし、貴重な体験ではあった。


もう二度と御免だけれど。




 

僕の誕生日に長男が三歳児検診に行って骨折して帰る、の巻


またまた色々まとめて書いた為にちっともまとまらない日記。


もう何度目か正確なところを忘れてしまったし知りたくもない僕の誕生日。
丁度この日が長男の三歳児検診で、妻と子が保健所迄出掛けたのだけれど、
検診に出掛けた筈が脛をパッキリ折られて痛々しいギプス姿で帰宅した。
遊びながら順番待ちをしている間に、他所のお子さんが台の上から脚の上に飛び降りたのらしい。
その場では折れている事が分からず、相手の連絡先等も確認せず別れてしまったので、
病院側の強い勧めもあって会場であった保健所に一応連絡を入れ、事情を説明したものの
予想通り何の対処も反応も得られず。
個人情報が絡むので勿論その様な対応が為されるだろうと思ってはいたけれど、
最初から責任の所在を他所へ他所へ、というのがあからさまで辟易とした。
結果同じ対応でも、もう少し誠意の片鱗の見えるような、
或いは僅かに香るだけでも、随分と気持ちの有り様が異なるのだけど、
非常にお粗末で、「お役所のすることだから…」「ぁぁ…」
という会話で全てが語り尽くせてしまうのは何とも残念。
状況を詳しく聞いてみても避けようのない事故で、勿論相手方に悪意のある筈もなく、
誰も責める気はないのだけど、代わる代わる対応を押し付けあって
必死に顔を背ける保健所の職員達の様が浅ましくて、気持ちを暗くする。
何度も見回りをして現場の状況は把握していたという課長は、
多くの子が泣いたり叫んでいたりしていた声が一切耳に入っておらず、
受付の仕事に集中していましたので…と言葉を濁すし、
一件一件当たって当事者を確認致しますと言ってしまった後で、
後で不味い対応をした事に気付いて部下に折り返し連絡させ、
個人情報を盾にとって何の御協力も致しかねますと言わせる。
見苦しい。
誰かに責を負わせたいのではない。
治療費を請求したいのでもない。
今日こんな出来事がありました。子の為に、互いに気を付けていきましょう、
という話が当事者同士で伝わりさえすればそれで良かったのだ。
うちに責任はない、と逃げ出す前に、もう少し人間らしい会話がしたかった。
そもそも少しも責める気持ちのないところに、余りにも不誠実で逃げ腰な対応をされると
何だか何処か責めなきゃいけないような気持ちになってしまう。


非生産的でストレスになるだけなので、愚痴はここに吐き出したので終いにしよう。
元気一杯の三歳児が狭い場所に大勢集まれば、どうしたって避け難い事故は起こりうる。
これからはもっと気を引き締めて精一杯勘を働かせ、
避けられるトラブルは最大限の努力をもって回避しよう。


それにしても明日からの子の入浴等、日常生活の工夫をどうしよう。
色々と解らない事だらけだ。
アスピリンロキソニン等との因果関係が懸念されるライ症候群のリスク回避からか、
鎮痛剤は処方されず、骨折箇所の痛みでよく眠る事が出来ずに数分おきに起きてしまう子を宥めながら、
この日記を書いている。


こんな事のあった時、以前なら母に、極力何でもない風を装って
「今日こんな事があってね」と話したろう。
話して何がどうなるという訳でもないが、
母はきっと一緒になって怒ったり(時には僕より激しく)
一緒に悲しんだり悔しがったりしてくれたろう。
そうしていつも僕の妻や子供たちを気遣ってくれた。
それがどんなにありがたかったか、今になって染み染みと知る。
随分と甘えさせて貰った。
妻に、「甘えられるうちに甘えておいた方がいいよ。」と言った。
妻は「うん。」と静かに頷いた。



 
 

寝かし付け


少し前にiMacが壊れた。
突然モニターがギザギザした縞模様になってそれっきり。
修理に出してモニターの交換で事なきを得たのだけど、手痛い出費。
そして修理から戻るまでの間、次男の寝かし付けに非常に難儀した。
と言うのも、長男の時もそうだったけれど、膝に置いたクッションの上に抱いてゆっくり揺らしながら、
或いは激しく貧乏揺すりしながらyoutubeで作った寝かし付け用リストを流す、
という寝かし付けパターンに頼り切っていたからだ。
これが驚くほどスムーズに機能して、よちよち歩きを始めた次男が、
眠くなると自分でクッションや枕を引き摺って僕のところへ来る。
もう眠いから早く膝に乗せて揺らせ、という訳だ。
彼らは流す曲にも細かく注文を付ける。
始めは少しの間モニターを眺めているから、静止画でなく動画の流れる曲。


静止画だったり最初からスロー過ぎると身を捩って抗議する。
気に入ればモニターを指差して静かに聴き入る。
段々とテンポはスローに、高音過ぎるピアノや女声が使われた曲は後半は控え目にして、
低く長く響く男声合唱等を…といった具合。

大体この黄金パターンで寝かし付けてきたので、パソコンが手許にないと、
どうして今日は膝抱きでいつもの曲流さないの?と言いたげに泣く。
だからパソコンが戻って来て、本当にほっとした。
HDのデータは初期化される可能性があると聞いていたからほぼ諦めていたのだけど、
モニター交換のみで済んだ為に何も失われなかった。
どこかで「失くならない物はない、壊れない物もない。」と思っているので、
いつもわりと簡単に諦めてしまうのだけど、
子の写真等のデータが消えてしまわなかったのは矢張り嬉しい。




  

あれから何度も備忘録を更新しようとしてはここを訪れ、
キーボードに手を置いて長いこと固まった挙句、何もせずに閉じる、という事を繰り返している。
去年のうちに書き留めておきたい事がいくつもあった筈なのに、
時間が経ち過ぎていて、その時の気持ちを思い起こしてみようとしても歪になってしまって、
もう元のまま書き記す事は出来ない。
まとまらない考えが幾つも浮かんで来ては過ぎ去ってゆくので、
少しでも整理して言葉にしようとすると、もういけない。
一言も言葉が出て来ない。
元々自分の為の備忘録として書き留めているのだから、
忘れてしまわない為の記号として機能しさえすればいいのだ。
そう気付いて、まとまらないままに書き連ねて更新する事にした。
書く事で少しづつ整理されていくこともあるのだから。


暮れに子供たちが風邪を拗らせて長く寝込み、
その看病に追われるうちに僕も妻も同じ風邪に罹って
家族揃って何だかはっきりとしない体調のままクリスマスが過ぎ、
すっかり草臥れてしまって、気が付けば年明けを迎えていた。
そんなだから、うちにも正月があったのだかどうだか、正直なところよく解らないでいる。
ひっそりと篭もり切ったまま、肩を寄せ合って静かにやり過ごした。
去年まではクリスマスだの正月だの、季節折々の行事には
少しは孫にそれらしい事をしてやりたいと言って、母が色々と気を配ってくれた。
そんな事いいよいいよ、と言いながらも、僕たちはその好意に甘えさせて貰った。


今年のクリスマスは皆寝込んでいて何も出来なかったけれど、子供たちには親戚や友人が贈り物をしてくれた。
元旦には妻が、ささやかながら豆を甘く煮て、他にも出来るものを少しだけ、と言って、初めてのお節料理を拵えた。
「季節折々に子供たちに少しでもそれらしい事を」僕も妻もそう思ったのは、
生前母がよくそう言っていたからだろう。


母が亡くなってから、母の声をよく聞く。
勿論耳に聞こえる訳ではないけれど、頭の中で声のすることがある。
「また苛ついた顔してるよ、よくないよ、気をつけなさい」
僕は度々母にそう言われた。
僕はわりとポーカーフェイスに自信があり、他人に気持ちを悟られる事は殆どない。
多少苛々していようが疲れていようが、我慢出来る範囲内なら一人になるまでは顔に出さないよう、細心の注意を払う。
しかし母だけは、どんなに平静を装っていても気付いてしまう。
時々は僕が自覚するよりも早く、それを指摘した。
言われてみて、「そうかな、そんな事ないと思うけどな」
咄嗟にそう答えてから、随分遅れて自分の気持ちに思い当たる。
時々その母の声が、頭の中に小さく囁いて、あ、今自分はどんな顔でいるかな、と考える。


そうやって、今も僕の中に母は生きている。
母が気遣ってくれたことや、その考え方、感じ方が、自分の考えや感じ方とはまた少し異なる立ち位置から、
時々肩を叩いて振り向かせ、耳元で囁いて立ち止まらせ、一人では気付けなかったかも知れない事を教えてくれる。
その事で、人の生や死についての感じ方、考え方が大きく変わった。


母が亡くなってから、僕は一度も涙を流していない。
男が泣いていいのは親の死に目だけ、そう言われて育った。
大っぴらに泣いていい筈のその日、僕はチャックを閉め忘れたまま葬儀場へ向かい、火葬場でその事に気付くと
「こりゃあいい別れの挨拶しちゃったな〜」と甥っ子たちに冗談めかして言い、笑いさえした。
泣けなかった。
目を逸らさず最期を看取り、棺に手を添えたまま家族で唯一人、葬儀屋の車に乗り、
病院から母の自宅へ向かう車の中でも、涙が頬をつたうことはなかった。
何故だろう。
兄たちがそれぞれに目頭を押さえ、小さく肩を震わせているのを見て、(お前は何故泣いてないんだ)と不思議に思った。
自分のことがよく解らなくなった。
これが母から受け取る最後のメッセージになるのだ。
しっかり見届けて心に刻まなければ。
そう思って、そうしたつもりでいる。
それなのに、だ。


よく解らないままに数ヶ月が過ぎ、色々あって疲れ切った頃、初めて例の母の声を聞いた。
ハッとした。
少し疲れていて、苛々していて、それが顔色に出ているかも知れない。
それは傍に居る人たちを辛くさせるかも知れない。
たとえ態度に出さずとも、当たり散らしたりせずとも。
それからは折々、子を厳しく叱る事を窘め、妻に感謝せよと気付かせ、
子らにしてやるべきことを促し、諭し、鼓舞して、我らと共に在らんとす。
そうやって、生者が忘れてしまわない限り、死者は生き続ける。
そう思い至ると、これまで持ってきた死生観とは全く別な側面が見えてくる。
僕にも、僅かながら残していけるものはあるのかも知れない。


薬の手放せない身体になってから、死はより親しい存在となって語りかけてくる。
そのこと自体には、不思議と畏れはない。
しかしそれが家族にどう影響するかということは、不安を掻き立てる。
子らはまだ小さくて言葉で伝えることは難しいけれど、もし仮に今何か起きたとしても、
妻は僕がどう考えどう感じる人間だったか、子らに伝えてくれるだろう。
彼女なりの言葉、感じ方で。
それで満足だ。
この備忘録も、続けてさえいれば、いつか子供たちが僕を知る為の記号としてなら機能する日が来るかも知れない。
だから続ける価値は、きっとある。


あの日泣けなかったのは、僕が母の死をしっかりと受け止められていなかったからだろう。
目を逸らすまいとするあまり、本当に見据えるべきものを見失った。
今も、本当の意味で理解出来たとは思えない。
そとに流せなかった涙はうちに流れるというけれど、それを思い知るような気持ちでいる。
もっと自分の気持ちが片付いて、腑に落ちる日が来れば、或いは素直に泣けるのかも知れない。
そうしたらまた何か今とは違った場所に気持ちを落ち着けられて、
今のよく解らない、落ち着かないふらふらとした心持ちも、
片付くべき場所に収まるのかも知れない。


母が亡くなるとすぐに下の子はハイハイを始め、驚くような早さでつかまり立ちをし、
伝い歩きをし、最近では一人で立ち上がりさえする。
上の子は初七日を迎える前にはっきりと「おばあちゃんちいくー!」と言えるようになった。
あとほんの少しだけでも居てくれたら、と思わない日はない。
子らが話すのを聞いて欲しかった。立つのを見て欲しかった。
もう一度皆で食事がしたかった。
そこにはどんなにか楽しい、安らいだ時間があったろう。
それを思う度、今を愉しまねば、と。
誰もが明日を迎えられるわけではない。
見逃さず、僅かな出来事を感じ、歓びたい。
何もないことを喜び、日々を惜しんで暮らしたい。





 

 敬老の日、母が旅立った。

白血病が再発し、再入院してから四日目のことだった。
何でも我慢してしまう癖の人だったから、
医師が「全身の骨が軋むような激しい痛み」と表現した痛みでさえ、
ぎりぎりまで自宅で我慢してしまったようだ。
モルヒネの投与が遅れた為にすぐには充分な鎮痛効果を得られず、酷く苦しんだ。
医師の話を聞くと、あと数日早く来院していたら、
もしかしたら最期の苦痛をほんの僅かにでも和らげられたかも知れなかった。
どんなに病院へ戻るのを嫌がっても、煩がられても、もう少し早く、
無理にでも病院へ連れて行くべきだったかも知れない。
それが一つ目に悔やまれる事。


亡くなる前の日の明方、携帯が鳴った。
苦しそうな息遣いの合間から「すぐ来て欲しい」という言葉だけを何とか聴き取り、病院へ急いだ。
病室に入ると、母は息も絶え絶えに、それでも僕を見ていくらかは安心したような顔をして、
鎮痛剤が少しも効かない事を訴えた。
医師を探して、何か他に痛みを和らげる方法がないかと訊ねると、
現在の病状がどれほど深刻な段階に来ているか、全て包み隠さず事細かに説明してくれた。
もうモルヒネも充分な効果を発揮せず、出来得る限りの処置を施している事を知って呆然とする。
事実を話して希望を奪う事は良い影響を与えない、というアドバイスを受け、
また自分でも強くそう感じたので、医師と口裏を合わせ、一世一代の嘘をつく事にした。
僕は医師よりも一足早く病室へ戻り、「拒否反応を防ぐ為に徐々に投与量を増やしているそうだから、
もう少しの辛抱だよ。絶対に効いてくるから大丈夫。少し時間は掛かるみたいだけど。」
そう言う事にした。
医師が後から来て、その後押しをしてくれる。
そう取り決めて病室へ向かう間、廊下が揺らめいて脚が萎えるような不安な気持ちになった。
母に上手く嘘がつけるだろうか。いつも僕の顔色を見ただけで何でも言い当ててしまったあの母に。


病室に着くと、心から安堵したような半笑いで病室に入り、ベッドの脇に腰掛けて
「わかったわかった、お医者さんが今すごく詳しく説明してくれたよ、後でここ来てもういっぺん話してくれるそうだよ。」
それからさっきの説明をして、大丈夫だからもうちょっと待ってて、と声を掛けた。
母は苦痛に顔を歪めたままだったが、それでも疑うことなく僕の話を信じてくれた。
それはこれまで、僕が一番したくないと思っていた事だった。
大切な人に、おそらくは隠されたくないだろう事実を隠す事。
自分は絶対にそうされたくない、どんな残酷な事でも事実を知っておかねば気が済まない、
自分の最期に関わる事なら尚更そうだ、そう考えてきたのに。
なのに驚くほどすらすらと、笑顔まで作って、自分でも信じ込みそうになるくらい巧く、
母に嘘をついた。
それが二つ目に悔やまれる事。
そうする他になかったし、もしやり直せるとしても何度でもそうするだろうけれど、
葬儀が終わった今もこの事が頭から離れない。


母は結局一日中激しい痛みに苦しみ、僕はそれを為す術もなく見ている事しか出来なかった。
それでも合間合間に色々な話をした。黙っていれば痛みのことばかりに気が行ってしまう。
言葉を絞り出すのは苦しそうだったが、僕は止めなかった。
携帯で撮った孫の動画を見せ、一番最近の写真を見せ、その様子を話し、
ハイハイを始めたばかりの弟と、その弟に跨って頬擦りしている兄の、笑い話のような様子を聞かせた。
そうしている一瞬にだけ、痛みは僅かに遠のいて、母は微かな笑顔を覗かせた。


二人の兄も来て、それぞれに言葉を交わした。
母は結局、本当に最期まで人のことばかり心配していた。
兄に「明日も早くから仕事なんだろう、身体が疲れるから早く帰って」と言い、
僕に「お前はお爺ちゃんに似て気が短いから心配だ、人を許せないと世界がどんどん狭くなるよ」と言い、
その日の晩、脳出血を起こして昼前には逝ってしまった。
出血が起こる直前に意識があったかどうか、誰にも判らない。
別れ際、「電話を鳴らしてくれさえすればすぐにまた来るからね」そう言い置いて帰ったが、
それきり電話は鳴らなかった。
母のことだから、そんな時でさえ「夜中に起こすと可哀想だから」と考えそうに思う。
いつもいつも人の事ばかりで、自分の事は二の次三の次だった。
そうして見返りは一切求めず、自分のした事で誰かが喜べば、それがそのまま自分の幸せだと思っていた。
そんな風だから、好物を訊ねられても困った顔をしている。
父や子供の好きなものが、誰かが喜ぶものが、その時自分の作りたい、食べたいものだったから。
幸せだったろうか、と考え込んでしまう事もある。
だけど今は、幸せな人だったんじゃないか、と思う。
人が笑ってるのを見ているのが本当に好きな人だった。
お前は下らない遠慮ばかりして気を回し過ぎる、良くない癖だといつも叱られたが、
気を回し過ぎるのはきっとあなたに似たのだ。
母は気遣いを悟られないように気を遣うのが、とても巧かった。


母のしてくれた事の中でも一番感謝しているのは、僕の妻を本当に可愛がってくれた事だ。
親元を離れて遠くに来て不安に違いないから、どんな事でもしてやりたいのだと言って、
あれこれ贈り物を探してきては、それを素直に喜んで受け取る妻を、可愛い可愛いと言って自分も喜んだ。
妻に「あんた本当に美味しそうに食べるねえ、こっちまで嬉しくなるよ」と言って、よく食事に誘ってくれた。
そんな時も、「御馳走してくれるのは大いにありがたいが今日は妻は留守だ」と答えると、
「なんだそうなの?じゃあまたにするわ、あんただけじゃつまらないから」と電話を切ってしまうのが常だった。
寂しい気持ちにならないように、不安にならないように、
一緒にいる時はいつも妻を中心において笑い掛け、僕を隅に置いた。
そういう気遣いが僕達を支えてくれた。
両手に一杯野菜を抱え、「買い物の帰りだから寄らないよ、忙しいんだから」と言って、
タクシーの窓から包みを渡し、車も降りずに慌ただしく走り去る。
そんな事がよくあった。
昔から重い荷物が苦手だったのに、うちに来る時はいつも吃驚するくらいの大荷物だった。
本当は用事があって出掛けたのじゃない、時々は贅沢なものを振る舞いたくて、
わざわざ買いに出掛けていたのを知っている。
何かあると、「嫌な事や悲しい事があった時は出来るだけ美味しいものを食べなさい」と言って、
果物やチョコを贈ってくれた。


下らない遠慮や意地で、そうした好意を固辞してしまう事もあったが、
今になってもっと素直に甘えておけば良かったと思う。
歳を取ると、人に甘えるのがどんどん下手になる。
人の好意を素直に受け取って喜べる妻と、それを心から喜べる母は何処か似通っていて、
ふとした瞬間には嫁と姑ではなく、歳の離れた友人同士のように見えた。
母がいなくなった今、僕よりも心細い気持ちになっているのは、もしかしたら妻の方かも知れない。


母が溜息をつくようにして最期の息を吐く時、義姉が我慢し切れなくなったように
「ねえ何か言ってあげて、もっと傍に行ってあげて」と言ってくれたが、
兄は「うん」と小さく返事をしたまま身動ぎせず、けしてベッドの傍には行かなかった。
僕は手を握ったまま、一言も声を出す事が出来なかった。
名を呼べば、苦しみを長引かせるように思えて恐ろしかった。


母の言い置きで、極力誰にも知らせず、母の姉妹と自分たちだけでひっそりと見送った。
母は出来るだけ誰も煩わせず逝く準備を整えていた。


葬儀も済んで、不義理になってしまうからいくつか連絡をせねばならないのは承知しているけれど、
あの病室での時と同じように、竦んでしまって話せない。
こうして文字には出来るのに、まだ自分の言葉に出して誰かに話せる気がしない。
悲しいのに、一度も涙は流れなかった。
今は気持ちの中に自分でもよく解らない事が沢山起きていて、
急いで答えを探せば判断を誤るように思えて、時々考えるのをやめる。
そうしながらいつも通り食事を摂ったり、買い物に出たり、子の世話をする。
いつかこの子たちに話してやりたい事が沢山ある。
知っておいて欲しい物語が沢山ある。
僕や妻のほかにも、君たちのことを本当に大切に考えていてくれた人がいること。
その人が君たちにしてくれたこと。それから君たちがその人にしてあげられたこと。
僕は本当に沢山のことをして貰ったのに、殆ど何一つお返しする事が出来なかった。
僕のした事といったら、よろよろと危うげに何とか踏み留まって、先を越さずに順番だけは守った事と、
それから子供たちと会わせられた事くらい。
それでも母は、「それだけで充分、お釣りがくるよ」と笑いそうな人だった。


最期の時をこの目に焼き付け、骨になるのも見たというのに、
まだいつものように電話が鳴るような気がしてならない。


「何か美味しいものでも食べに行かない?みんな何がいい?」















 















 


少し前に、車を買った。
兄が、知り合いの中古車屋に驚くほど安い車がある、と教えてくれたのがきっかけで、
もう車を見もせずに、その場で買う事を決めてしまった。
兄は車を使う商売をしている。
その兄が、確かに古いが、まだ暫くは大きな問題なく使えそうだ、
と言うので、その言葉を信用する事にしたのだ。
勿論安いのにはそれなりに理由があって、走行距離がかなりのものである事、
とても古いタイプの軽自動車である事、等。


車を手に入れたものの、僕は車の免許を持っていない。
何となく機を逃した、というのと、僕を知る幾人かの人から
「長生きしたいならお前は免許を取るな」と言われてもいた。
元々あまり気の長い質ではない、というのと、
「恐がらない者は運転に向かない」のだそうだ。
妙に神経質で慎重な部分と、極端にそうではない部分とが混在していて、
自分でもあまりそうした事に向いていないのかも知れない、とは思う。
今となっては、持病の症状が時々視界に影響を及ぼすこともあって、
免許を持っていなくて幸いだった。
あれば利便性に負けて矢張り使ってしまうだろうから。


それでも子が二人になり、ちょっとした移動も時には困難で、
車があればな、と思う機会も増えた。
そこで、ペーパードライバー歴数年の妻が、
この数日、恐る恐る慣らし運転期間中である。
僕の、スピードを恐がらない気質は、確かに運転には不向きだろうけど、
同乗者としては、多分それほど悪くない。
あれこれ煩く口出しして隣の席で怯えられたのでは、
不慣れな運転が余計に困難になるだろう。
多少危なっかしくても、隣で呑気に「大丈夫大丈夫。」と言ってさえいれば、
少しも役には立たないけれど、きっとさして邪魔にもならないだろう。
運転者に命を預けて一蓮托生、二人の子が後部座席に居るから
言わずとも妻は勿論これ以上ないというくらい慎重を心掛けているし、
空いている時間帯を見計らい、広い道を選び、
取り敢えずは授乳室完備でおむつ替えに困らない、
市内の巨大ショッピングモールを手当たり次第に梯子して練習中。
閉店間際の人気のない駐車場で車庫入れの練習をさせてもらったり。


長男は車が大好きなので、あんなに静かで良い子にしているのは
車の中だけじゃないか、というくらい静かに乗っている。
次男くんはまだチャイルドシートに慣れなくて、
一旦御機嫌を損ねると車を降りるまで大声で泣き続けるので、
先日は、横で一生懸命宥めようとしてくれていたお兄ちゃんもとうとう困り果て、
しまいには自分も負けじと大声で泣き始めて車の中が大騒動になった。
何とかしてやりたいのは山々なれど、助手席からはどうしようもなくて、
それまで健気に頑張っていたお兄ちゃんが弟の迫力に負けて泣き出したのが、
笑っては悪いけれども本当にその様子が可笑しくて愛しくて、
僕は隣の席で我慢し切れずに盛大に笑い出すし、
妻は早く帰って子供達を落ち着かせたいと気が焦るしで、
そうだ、音で何とか気を紛らわせないかと点けたラジオからは
陽気なラテン系の曲が流れ出し、大音量に驚いて一瞬泣き止んだ兄弟が
すぐにラテンのリズムに合わせるかのように泣き声を叫びに昇華させて、
さながら地獄のドライブの様相を呈した。


毎度こうでは流石に笑い事じゃないので、早々に何か対策を講じたい。